幸せのレシピ集

cawaiiとみんなでつくる幸せのレシピ集。皆様の毎日に幸せや歓びや感動が溢れますように。

多少萎んでしまっても、ハリが消えても大丈夫。本領発揮はこれからよ!

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昨年の冬至に楽しんだ柚子湯。

いつもは2日間ほど楽しむことが多いのだけれど、昨年は思っていたよりも柚子の傷みが早く、1日のみとなった。

1日だけでも楽しめたのであれば御の字ではないかと、気持ちを落ち着かせていたはずなのに、

その後、足を運んだスーパーの陳列棚に並んでいた柚子に吸い寄せられ、

自宅キッチンには、ゴロゴロッと柚子が積み上げられていた。

しかし、どうしたことだろうか。

気分は柚子湯ではなくなっていたのである。

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柚子は、爽やかな香りと酸味、色鮮やかな皮色から、日本食にアクセントを添えてくれる食材である。

今でこそ、露地もの、ハウスものを合わせれば、1年を通して「青柚子」「黄柚子」と楽しむことができるけれど、本来は強く季節を感じさせる食材だったという。

そのような状況を想像すると、先人たちにとっての冬至の柚子湯は、それはそれは贅沢な、スペシャルバスだったに違いないと思う。

以前、この時季の黄柚子を楽しむ際のポイントは皮だとお伝えしたことがある。

柚子には、ビタミンC、カリウム、鉄分、ミネラルなどの栄養素が豊富に含まれているのだけれど、

どちらかと言えば、果肉や果汁よりも皮に、これらの栄養分が多く含まれていると言われているからだ。

しかし中には、柚子を買ってみたは良いけれど、新年を迎えた辺りからみるみるうちに実が萎んで、皮もハリがなくなり柔らかくなり、

全てを上手く使いきることができなかったという経験をした方もいらっしゃるかもしれない。

実はこの、実が萎んでハリも失われたように見える状態こそが、柚子が熟したサインなのだ。

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何方の書籍だったのか記憶にはないのだけれど、偶然手に取った書籍内でこのことを知った私は、

敢えて柚子が萎むのを待ち、実際に食材として使ってみたことがある。

そして、本当だと静かに感動して以来、柚子がキッチンで萎んできても、皮からピンッとしたハリが失われても、早く使いきらなくちゃと焦るどころか、「いい塩梅に熟しておくれ」と思うようになった。

柚子を料理に使うといっても、柚子はアクセントとして登場する名脇役なので、使用量は知れている。

そのような時には、まず柚子を絞ってしまうとよい。

そこに少量のお酢を注いだら、味を見ながらお醤油を足していく。

最後に、鰹節を旨味と香り付けに混ぜ合わせてポン酢にしてしまうのだ。

ポン酢を適量取り分けて、ここに少量のごま油やオリーブオイルなど、お好きなオイルを混ぜ合わせれば、あっさりとしたドレッシングにも。

更に、柚子果汁を絞り終えた皮は、直ぐに刻んでハチミツかお砂糖を合えて5分ほど置けば、

そのまま摘まんでよし、紅茶やヨーグルト、トーストと合わせてもよしと言った、さっぱりとしたジャム風の一品が出来上がる。

私の目的は、どちらかと言えばポン酢よりもこちらの一品だ。

今回のジャム風の一品には、ハチミツではなく奄美大島の島ザラメで和えてみた。

ハチミツとは異なる、島ザラメのこっくりとした深い甘みと柚子皮の苦味がクセになりそうな一品に仕上がった。

料理研究家の方々が、柚子は丸ごと召し上がれと口を揃えて仰っているけれど、この2品を作ると毎回、「確かにね」と思う。

まな板の上に残るは種のみというのも、妙に心地よい。

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柚子は、多少萎んでしまっても、皮からハリが消えても大丈夫です。

分量も、味を見ながら、その時々の気分で配合すれば十分ですので、気負わず、気軽な気持ちでトライしてみて大丈夫。

ご興味ありましたら、年初めの小さなトライとして、黄柚子の旬が終わる頃までに柚子を丸ごと召し上がってみてはいかがでしょうか。

本年も、小さなトライがあなたの日々を豊かに創造してくれますように☆彡

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1月の誕生月花でもあるシンビジウム。

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お店のレジでお会計をしていると、奥の作業台に飾られていた蘭の一種、シンビジウムに目が留まった。

柔らかいトーンをしたピンクと白が混ざり合うような花びらのそれは、いちごミルクを連想させるような可愛らしさがお店の雰囲気に、とても合っていた。

可愛らしい色合いをしているのだけれど、迫力ある大きな花は豪華さも兼ね備えており、

その辺りはやはり、蘭が持っている性質なのだろうなと思いながら、受け取った釣銭をお財布に入れた。

私の視線が、作業台に飾られていたシンビジウムに向いていたことを察知していたのか、店員が今が見頃のシンビジウムで、「あんみつ姫」という名がついているのだと教えて下さった。

あんみつ姫?と繰り返したのは私が初めてではなかったのだろう。

店員は、答え慣れているかのような口ぶりで、私も初めて知ったんですけれどと前置きをし、鉢に挿してあったネームプレートのようなものを引き抜いて見せて下さった。

確かに書いてあった「あんみつ姫」という名。

お店を出てから、いちごミルクのようだと感じたあの印象は、当たらずとも遠からずといったところだったと思った。

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日本では、節目でもあるお祝いごとに、胡蝶蘭の花を贈ることが多い。

お祝いに贈る花のひとつと言えば胡蝶蘭、胡蝶蘭を贈っておけば間違いないという、暗黙の決まり事のようなものがある。

そこには、そうなるだけの歴史があったり、幸せが飛んでくるという素敵なメッセージが含まれているからでもあるのだけれど、

お祝いしたい気持ちは胡蝶蘭くらいあり蘭を贈りたいのだけれど、胡蝶蘭を贈ったのでは大げさすぎて、相手に気を遣わせてしまうということもある。

そのような時に、おすすめできる蘭がシンビジウムである。

花のサイズは、小ぶりなものから大ぶりのものまで揃っているし、優しい花言葉が多く、花持ちも良い。

そして、誕生石と同じように、誕生月花というものがあり、これは国によって選ばれている花が異なり、また数種類の花が選ばれているのだけれど、

シンビジウムは、椿や水仙などと一緒に、1月の誕生花として扱われることがある花でもあるのだ。

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私は今回はじめて、シンビジウムに「あんみつ姫」という品種があることを知ったのだけれども、

他にも、シルバンスプリング・セリーヌという名や、セーラームーン、キューティーハニーという名の品種もあるそうで、

蘭に品種名のプチエピソードを添えて贈ってみたいという気持ちが、湧いたような気がした。

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1月にお誕生日を迎える方にお花を贈る際や、歓送迎会でお花を贈る際などに、

これまでとは少し異なるポイントで、お相手に似合うシンビジウムを選んでみるのはいかがでしょう。

とは言うものの、お花を贈る機会は、そう多くはないかもしれません。

そのような時には、知っている花の名を今一度、のぞいてみるというのも一興です。

十人十色なのは人だけに非ず。

私たちが知っていたはずのそれとは似て非なる、時代を反映した、今どきの名を持った花と出会えるかもしれません。

贈る、贈らない以外にも、花の楽しみ方は色々でございます。

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根っこの部分には、温かいものを忍ばせて。 

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今年は、お正月感に包まれている街中に出る機会があった。

門松や注連縄、餅花や振る舞い酒など、目でも楽しむことができたのだけれど、

目の前には、子どもの頃に感じていたお正月感とは別のものが広がっていたように思う。

ただ変わらないのは、お年玉を何に使おうか、どれに使おうかと、目の前の商品を真剣な眼差しで眺める幼き子ども達の顔だろうか。

子ども達に人気があるお店の前を通り過ぎながら、そのようなことを思った。

厳かさではなく、賑やかさ溢れる街中を堪能しつつ、ふらりと、あるお店に足を踏み入れた。

特に購入する予定はなかったのだけれど、店内の商品を見て回りながら、この手のものを贈り物にするのも良さそうだなどと楽しんでいた。

すると、店員の目には、贈り物を探しているように映ったのか、

店内の商品を矢継ぎ早に紹介され、特に購入する予定はないのだと言いそびれてしまった。

言いそびれついでに、しばらくの間、営業トークを聴いていたのだけれど、

これは男性なんかへのプレゼントにもいいですよ、こちらは女性なんかにも人気です、これと組み合わせると年配の方なんかにもいいですよ、と続いた。

それを聴き終えたところで「もう少し、考えてみます」と購入する気があったかのような子芝居をする裏で、

「なんか」という表現は、気を付けて使わなくては。と思いながらお店をあとにした。

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丁寧な接客だったこともあり、嫌な気分になった訳ではないし、本人の口癖なのだろうと思う。

ただ、「なんか」という表現には、その物や人を否定したり、軽んじるような印象を聴いた人に与えることがある。

使いどころやタイミングを誤れば、今の時代、何かしらのハラスメントとして映ることもあるのではないだろうか。

言葉は発した瞬間から、本人の意思とは関係ないところで、良くも悪くも一人歩きをし始める。

特別な言葉を使わなくてはいけない、常にお作法を意識しなくてはいけない、ということではなく、

言葉は、ほんの少し意識するだけで、相手の気持ちを和ませる力があるのだ。

今回は、特別嫌な思いをしたという訳ではないのだけれど、

自分の口癖は、自分では気が付き難いため、セルフチェックをする機会となった。

相手が子どもであろうが、大人であろうか、何気ない関わり合いの中にも“何かしら”ということなのかもしれない。

どのようなシチュエーションで発する言葉であっても、出来ることなら根っこの部分には、温かいものを忍ばせておきたいものだ。

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焚き火のちから、煙の力。

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神社の広場に設置してある焚き火コーナーに人が集まっていた。

暗闇の中で、空へ向かって炎を伸ばしながら揺れる様には、確かに、癒し効果があるように思う。

以前、こちらでも触れたことがあるのだけれど、炎の揺らぎには人を癒す効果があると言われている。

他にも、焚き火の炎から放たれている遠赤外線には、私たちの体を芯から温める性質があるのだとか。

表面だけを温めるのとは異なり、体の内側に温かさの素を仕込むようなものであるため、

血行がよくなり、代謝があがることで、更に温かさが持続するという。

このようなことを改めて聞くと、先人たちには現代のような便利さは無かったけれど、

本当に必要なものや、それを作り出す知識のようなものは、しっかりと手にしていたのだろうと思ったりもする。

もう随分と前の話になるのだけれど、仕事をご一緒させていただいた方々と浅草にある浅草寺へ行ったことがある。

確か、遠方からいらしていた方が、「一度で良いから浅草の浅草寺へ行ってみたい」とおっしゃったことがきっかけだったように記憶している。

浅草寺と言えば、常香炉(じょうこうろ)と呼ばれる大きな香炉からモクモクと立ちのぼる煙を、自分の方へと両手で手繰り寄せて、

頭のてっぺんから体を包むようにしながら浴びることでも有名である。

香炉はお清めに使われる仏具のひとつなので、この香炉から立ち上る煙を、不調が出ている体の部位に浴びせると状態が緩和される、治るといった言い伝えがあるため、参拝客は、これを行っている。

私は当時、お寺で煙を浴びるのは、このような言い伝えがあるからだと思っていたのだけれど、

煙は、体に付着したり、体の中に入ることで、私たちの体内で悪さをしようとしている菌の活動を抑える効果があると知ったのだ。

もちろん、煙であれば何でもよしということではないだろうし、適量ということでもあるのだろうとは思うけれど、

煙を浴びることで抗菌効果や殺菌作用、更に抗酸化作用があるということである。

先人たちが、どこまで知っていたのかは定かではないのだけれど、単なる言い伝えだと思っていることの中にも、真が潜んでいると感じた日であった。

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煙を浴びると、お洋服や髪の毛が煙を吸いこんで少々厄介だという心内の声も無きにしも非ず、ではあるのですが、

焚き火にあたる機会や、ご旅行の際に常香炉(じょうこうろ)から立ち上る煙を浴びる機会などありましたら、

煙の力を、ふわりと浴びてみてはいかがでしょうか。

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色は、様々な扉を開くための鍵。

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寒い。

ひと晩かけて自分の体に馴染んだ、何とも言えぬ温かさのベッドから抜け出すのに勇気がいる季節である。

遠くの方で微かに聞こえているかのような音量のアラーム音が、次第にボリュームを上げながら耳元へ近づいてくる朝だ。

アラームを止め、ブラインドの羽根を緩めて朝陽を取りこんだけれど、今日はもう少し眠っていられる日だと気付き、再び、ぬっくぬくのベッドの中へ潜り込んだ。

この、再び潜りこむことができることの幸せ感といったらない。

二度寝バンザイと頭の中で呟いて、ベッドの中の温かさを貪っていたのだけれど、外を行き交う車の音に邪魔されて体を起こした。

ガウンを羽織ってみるも、みるみるうちに冷やされていく体をさすりながら、

マグカップにレモン果汁入りの白湯を準備し、それを飲みながらソファで体が目覚めるのを待った。

窓からはオレンジ色の陽射しが差し込んでいて、リビングの床に陽だまりができていた。

猫を飼っていたなら、あの陽だまりは猫に占領されてしまうのだろうか。

そのような想像を巡らせながら、頭と体をゆっくりと目覚めさせる、心地よい朝だ。

テーブルの上に置きっぱなしにしたままの万葉集をパラパラとめくっていると、「いろせ」「いろね」といった言葉に目がとまった。

初めてこの言葉に触れたときは、「いろせ」とは、「いろね」とは何?全く意味が分からないじゃないか、と少々腹立たしく思ったこともあったけれど、

無理をせずに時間をかけて眺めているうちに

「いろせ」は、同じ母から生まれた兄を、「いろね」は、同じ母から生まれた姉を表す敬称のようなものだと分かった。

そして、この時代に使われていた「いろ」という言葉は既に、恋を表す言葉としても使われていたということも知り、

古と現代を結ぶピースのようなものに触れることができたような感覚になった。

このときの出来事も、知らなかったことを知ることができたなら、

それまで見えていなかった世界が目の前に現れる楽しさを知るきっかけの一つだったのかもしれない、と今は思う。

正直なことを言えば、知らぬままでも困りはしないと思うこともあるのだけれど、

見えていなかった世界が目の前に表れる楽しみを知ってしまったら、

そこから更に、様々な世界が広がっていく感覚を知ってしまったら、

知らなかった頃の自分には戻ることができないということも、このようなことからも体感したように思う。

私の心内のことはさておき、「色(いろ)」のお話を少し。

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過去記事で誕生色というものをご紹介させていただいたことがあります。

その中では、お誕生日月の色にフォーカスを充て、日本の伝統色を様々な視点から見たり触れたりしていたのですが、

国の文化や、そこで暮らす人々の生活の様子を知る方法のひとつとして、その国の伝統色、色をのぞくと良いと言われることがあります。

もっと私たちの身近なモノゴトに当てはめるならば、その年の景気の様子が、世の中で特に好まれる色に表れていると言われることもありますし、

平安時代の着物と大正時代の着物を見比べてみますと、

時代によって反物の使われている色の雰囲気が異なっていることは明らかで、その異なりが時代の異なりを映していたりもします。

このように、色というものは、ただそこに在るものというよりは、

人々の心内や世の中の状況、モノゴト、風景といった、色以外のものと関わっている、面白いものでもあるのです。

「色恋」という言葉がありますが、こちらもまた鮮やかな時、穏やかな時、暗く沈んでしまいそうな時と、人が抱く様々な心情や状況が「色」という言葉に込められています。

もとは、身近な人を表す敬称だった言葉ですが、

「色」は、様々な扉を開くための「鍵」のような存在なのではと思ったりもいたします。

きれいな色を見て、大なり小なり気持ちが動くのは、気付かぬ間に扉を開け、色の奥の世界に触れているサインかもしれません。

「色」「いろせ」「いろね」など、色に触れる機会がありましたら、ちらりと思い出していただけましたら幸いです。

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私の都合と体の都合から見る、体内バランスのとり方。

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記憶に留めておきたい資料があり、片っ端から目を通していたのだけれど、

思いのほか早い段階で、私のキャパシティーを超えてしまったようで、何も頭に入ってこなくなってしまった。

以前、東洋医学に携わっている方にこのような話を聞いたことがある。

室温と理解力や学習能力には大なり小なり関係があり、

室温が20度から21度を超え始める辺りから、頭に入りにくくなると言われているのだそう。

その時の話を思い出し、エアコンの設定温度を確認すると23度。

しかし、体感温度はそれ以上であり、私は珍しく氷を入れたアイスティーを飲んでいた。

自分のキャパシティーや集中力の有無を棚に上げて室温のせいにしてしまうことに、

若干の躊躇いはあったけれど、この時の私は潔く室温のせいにし、窓を開け放った。

体感温度と言えば、「頭寒足熱(ずかんそくねつ)」という言葉がある。

読んで字のごとく、頭を冷やして足を温めると、質の良い睡眠をとることができたり、健康に繋がるという意味の言葉である。

この言葉に関しても、東洋医学視点から見る興味深い話がある。

今回は、そのようなお話を少し、と思っております。

ご興味ありましたら、ちらりとのぞいていってくださいませ。

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一般的には、頭は温め過ぎず、足元はしっかりと温めることが、体温調節のコツというような言われ方をしているのですが、

東洋医学の視点を借りますと、これは、体の外側と内側の温度のバランスを取るためのコツという見方ができると言います。

私たちが暮らしている環境では、熱気は上へ、冷気は下へ溜まる性質があります。

そこに身を置く私たちの体は、これに対応しようとして、

本来は、頭は適度に冷やし、足元は温めるように働こうとするのだそう。

その働きが止まってしまいますと、頭は外側の熱気の影響を受けて熱くなり、そのうちのぼせてしまいますし、

足は外側の冷気の影響を受けて冷えがすすみ冷え性になるどころか、冷たさで感覚がなくなってしまいます。

ですから、私たちの体は本来、体の外側と内側の温度のバランスを取るための機能が備わっているはずなのですが、

様々な環境の変化の中で本来の機能が鈍くなっており、冷え性の方、のぼせやすい方などが増えているといいます。

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そこで私たちは、本来の体の機能を外側からのケアで補おうと、

たくさん着込んだり、足元を温めたりしています。

しかし、忘れてはいけないのは、人の体は身を置かれた環境に対応しようと変化するということ。

例えば、冷え症の方が、足が冷えるからと言って、外側から常に温められている状態を当たり前にしてしまったら、

私たちの体の内側は、外側の環境との間でバランスを取ろうとして、

足の内側を冷やそうと動く場合があるというのです。

暑くなってきたら履いていた靴下を脱ぎたくなるときの状態を思い出していただくと、この体の機能をイメージしやすいかと思います。

もちろんこれは、足元を冷やして機能を取り戻すのが良いと言っているのではなく、

性質や状態を知って、内側から温めるようにケアしつつ、

それでも温まらない場合の対処法として外側からも温めるというケアをプラスすることで、

ケアのバランスがとれて、体本来の機能が働くように整えていくことができるという意味です。 

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このような視点で体の状態を見てみますと、身体は内側からと外側からの両方のケアを上手に使うことで、

体本来の働きに近づけることができるということがイメージとしても掴めるのではないでしょうか。

冷え性の方や、のぼせやすい方は、ご自分のケアを振り返ってみてはいかがでしょう。

ただただ着込んで温める外側からのケア、温かいものだけを口にする内側からのケアなど、どちらかの視点に偏ったケアをしていませんか。

今年は、体本来の働きを呼び覚ますような体の整え方をしてみてはいかがでしょう。

今年は、まだ始まったばかりですので、今回は「頭寒足熱(ずかんそくねつ)」という言葉から、

自分の今の状態や、これまで気を付けてきたことをセルフチェックしたり、

様々なことに気付くきっかけにしていただければと思います。

幸せのレシピ集では、時々ではありますが、外側からのケアや内側からのケアを様々な視点で、皆さんと一緒に触れていければと思っておりますので、

ご興味ありましたら、お付き合い下さいませ。

本日も、身体ぽかぽかでまいりましょうね。

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言葉と占術、寒九の雨。

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年末年始に感じた街中の静けさも消え、すっかり日常が戻ってきている。

冬ならではの、毛穴がキュッと引き締められるような冷たい空気に触れたくて、飲み物片手にベランダのガーデンテーブルへ移動した。

空は、どんよりと沈んだ色をしていて、雨が降る前のようだった。

鼻先を、マグカップから立ちのぼる湯気に温められながらルイボスティを飲んでいると、亡き祖母が言っていた「寒九(かんく)の雨」という言葉を思い出した。

この時季の冷たい空気と曇り空が、いつぞやかの祖母との記憶に触れたのだろう。

今回は、この言葉から見える景色を一緒にのぞいてみませんか。

ご興味ありましたら、お好きなお飲み物片手に、お付き合いいただければと思います。

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寒九(かんく)というのは、寒の入りから数えて9日目の日を指しています。

寒の入りという言葉はよく見聞きするかと思いますが、

季節を細かく分けで表す二十四節気(にじゅうしせっき)にある、小寒(しょうかん)という日を「寒の入り」と言っております。

この寒(かん)の時期が明けるのが立春です。

ですから立春は、別名、「寒の明け」と表現されたりもします。

この寒の入りから寒の明けまでの約一か月間を、寒、寒中(かんちゅう、や寒の中などと呼び、一年で一番、寒さが厳しい時期だと言われてきました。

この時季のご挨拶に、寒中見舞いというものがありますが、一年で一番、寒さが厳しい時期のご挨拶ということです。

少し話が逸れてしまいましたが、2019年の寒の入りは1月6日ですので、今年の「寒九」は1月14日ということです。

 

この、寒さが厳しい寒(かん)の時期には、その様子を細やかに表現する言葉が多々あるのですが、

その中のひとつに、今回触れております「寒九の雨」というものがあるのです。

これは、古から使われてきた豊作占いが元になっている言葉で、

寒九の日に雨が降ると、豊作の前触れだと言い伝えられてきたようです。

日本には、このように特定した日のお天気を見て、その年の豊作などを占ってきた歴史があります。

誰にでもできる占術と言っても良いと思うのですが、言葉を少しだけ深くのぞくだけで、

季節の背景だけでなく古の占術を手に出来るのも、言葉を知る上でのちょっとした楽しみではないかと思います。

この占術を使いますと、今年の寒九は寒の入りから9日目ですので、14日に雨が降れば、豊作の前ぶれの雨だということです。

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寒九までは、もう数日ありますので、14日は「寒九の雨」という言葉をちらりと思い出していただき、豊作の吉兆を占ってみてはいかがでしょうか。

古には、このような占いがあったようですが、長い目で見れば、豊作の為には雨の日も晴れの日も無くては困りますので、

目の前に広がる景色を言葉と共に温かい眼差しで感じていただければと思います。

女性の皆さんは、そろそろ年末年始の疲れが出てくる頃でもありますので、ほっと一息つくこともお忘れなく。

本日も、良き日となりますように☆彡

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小さいけれど頭脳派な彼らである。

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先日までクリスマスだ、大晦日だ、お正月だと言って慌ただしくしていたはずなのだけれども、

気付けば11日、あっという間に鏡開きだ。

鏡開きの日は、鏡餅を食べる事で、新しい年を元気に、幸せに、暮らせると言われている。

飽食の時代の影響なのか、「お餅は食べ飽きた」と耳にする機会も増えているように感じることもあるけれど、

鏡餅は、山から家に来てくださった歳神様(年神様)が山に帰る日まで、よりどころとして過ごしていた場所で、歳神様(年神様)の力が宿っていると言われているため、

美味しく調理して、楽しみながら縁起を担ぐのも良いのではないかと思う。

今回は、鏡開きに因んだお話をと思っていたのだけれど、鏡開き当日の巷には、鏡開きの話題があちらこちらに転がっているように思うので、

昨年末、赤いポストの前で思い出したお話を少し、と思っております。

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年末の慌ただしさ漂うその日。

私は、鞄の中から取り出した郵便物をポストに投函した。

いつもならば、そのまま向かう先へと視線が伸びるのだけれども、

その日は、ポストの足元付近で何かが動いたような気がして視線を下に向けたのだ。

すると、大きな梅干しほどの黒い塊が、小刻みに動いていることに気が付き、思わず無言で仰け反った。

しかし、止めておけばいいものを、好奇心が若干勝った私は、しゃがみ込むことはしなかったけれど、その黒い塊を上から見下ろした。

多分、キャンディか何か甘いものだったのだろう。

勤勉なアリたちが、多数群がっているところだった。

その様子を見て、知人から聞いた「アリは、大量のお砂糖には近づかない」という興味深い話を思い出した。

私たちが使っているお砂糖は適量ずつ包装してあるものだけれど、当然、これを作る工場があり、そこには山のように大量のお砂糖がある。

しかし、このようなお砂糖を作っている工場には不思議とアリがいないというのだ。

私はその話を聞き、密閉状態の場所やタンクのようなものに入れられているから、

アリは近寄ることができないのだろうと想像したのだけれど、

お砂糖工場では、源糖と呼ばれる、お砂糖になる前の未精製の状態のものが、倉庫のようなところに豪快に積んであることが多いのだそう。

そして、この源糖を口に入れられる状態に精製するために、必要な分量ずつ、ブルドーザーのような重機を使って倉庫から運び出すという。

口にできる状態になる前の源糖だとは言え、甘い香りが周りに漂うくらい十分に甘いというのに、

この源糖が保管してある倉庫に、アリはいないのだとか。

どうしてアリがいないのか、はっきりとした原因は分かっていないのだけれど、

これは、お砂糖が持っている、周りの水分を吸う性質が原因のひとつではないかという話があるそうだ。

キッチンで、「お砂糖が周囲の水分を吸って固まってしまった」という経験をしたことがある方もいらっしゃるかもしれないのだけれど、

そのようなことが、源糖とアリの間でも起こるのでは、ということのようだ。

アリが、倉庫の天井に届かんばかりの大量の源糖に近づけば、

お砂糖に体の水分を吸い取られて命を落としてしまうことを本能で察知しており、

アリは、お砂糖工場の源糖には近づかないのではないか、という見方である。

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アリといえば、地下の巣に居る働きアリの1匹、1匹を識別して、巣全体の観察を続けると、

どのような事態が起きても働かず、当てもなくプラプラと巣の中を歩き回ったり、

1日の大半を、寝るかカラダのお手入れをするかして過ごす、おさぼりアリが2割ほどいるという話に触れたことがあるけれど、小さいけれど、侮るなかれである。

人だけでなく、アリも見かけによらぬもの。

もしかしたら、彼らは、私たちが思う以上に頭脳派なのではないだろうか。

ポストの前で軽く仰け反りつつ、そのようなことを思い出した日。

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“新型の子どもたちと旧型のワタシ”を意識させられた日。

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我が家は毎年、大晦日も通常通りに動いているため、その年最後の晩餐にありつける時間帯も少々遅め。

そのこと自体に特別、何を思うでもないのだけれど、

テレビから聞こえてくるカウントダウンの声に、背中をグイグイ押されるようにして一年を締めくくり、

グイグイと押し出されるようにして新たな一年への一歩を踏み出すような年越しである。

口にしたご馳走の消化が、始まった気配も感じられぬまま眠ることも出来ないため、

カロリー消費も兼ねて年が明ける少し前に初詣へと出発している。

ピンと張り詰めた冷たい空気に覆われた街中に、チカチカと点滅する信号機。

多くの人たちが帰省しているからなのか、街の中に感じられる人の気配は少ない。

何処からか聞こえてくる除夜の鐘を拾い聞きしながら駅構内へ入ると、

普段の照明は、いつにも増して明るいように感じられ、普段とは異なる、年明け早々の景色が広がっていた。

神社に到着すると、既にお詣りの列ができており、今年もその最後尾に並んだ。

街中に位置している神社では、夜空に浮かぶ星を確認することはできないけれど、何となく空が澄んでいるように感じられるのは、

年が明けたことで、気持ちが無意識に晴れているからなのかもしれない。

非日常にテンションが上がっている子どもたちを微笑ましく思うのと同時に、

少しばかりの羨ましさを胸に抱きつつお詣りの順番待ちをしていると、背後から何気ない会話が聞こえてきた。

「最近の子どもたちは、皆まつ毛が長くて羨ましい。まつエクとは無縁の人生を歩むんだろうな。」と。※まつエク=まつ毛エクステンションの略

そう言われてみると、確かにまつ毛が長い子が多いように思う。

そのようなことを思いながら、辺りではしゃいでいる子どもたちのまつ毛に目を向けていると、

背後から聞こえてきたのは、

「最近の子どもたちのまつ毛が長いのは、空気が汚れているから目を守るために男の子、女の子関係なくまつ毛が伸びてるんだよ。」という、お連れの方の声だった。

え!?そうなんですか!?と心の中で声を上げていると、

最近の子どもたちは、皆まつ毛が長くて羨ましいと言っていた方が、私の心の中の声と同じ声を上げた。

ごもっともな見解であり、まつ毛事情の原因のひとつではあるのだろうと理解もできるのだけれども、

ヒトの進化を、はっきりと目の前に差し出されたような驚きを感じたのと同時に、

“新型の子どもたちと旧型のワタシ”という構図が脳内に浮かび、何とも表現し難い複雑な気分になった。

当たり前のことなのだろうけれど、環境に合わせて進化しているのはヒトも同じなのだ。

“新型の子どもたちと旧型のワタシ”を意識させられるところから始まった2019年、ワタシだってまだまだ進化するぞと意気込んでいる鏡開きの日である。

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一時期姿を消していたテフが再び!?|テフとは何ぞや?

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今年に入り「テフ」を混ぜ込んでいるパンを幾度か目にした。

私の記憶も既に曖昧になってきているのだけれど、スーパーフードとして話題になったキヌアと同時期に目にするようになった食材だったように思う。

紹介されている画像などを見ると、キヌアやアマランサスに似ているようにも見えるけれど、

現物のテフは、更に小さな粒のような、いや粒というよりは粉のようなと表現してもいいくらい、非常に小さくて地味な見た目である。

私は先にキヌアを食し、その栄養価と食感が気に入ったこともあり、自然とキヌア贔屓になった。

そして、いつの間にかテフという名のスーパーフードの存在を記憶から消してしまっていた。

それから数年は経っただろうか。

昨年末にテフの栄養価に触れる機会があり、年が明けたらテフを混ぜ込んでいるパンの登場である。

もうこれは、誰かに「一度でいいから食してみよ」と言われているような気がして、何度目かには、お目当てだったパンを諦めて、テフ入りのパンをトレーに乗せていた。

前置きが長くなりましたが、今回は地味だけれど栄養価に富んだ「テフ」のお話をと思っております。

ヘルシーで、栄養価が高く、味付けの邪魔をしない、トッピングとしても手軽に使うことができるスーパーフードですので、ご興味ありましたらのぞいていって下さいませ。

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もとはエチオピアの方々が主食として親しんでいるテフ。

その歴史を辿ると、それはそれは古より食されてきた食材だという話を至るところで目にします。

これは、テフが、過酷な環境に置かれても逞しく育つ植物だったからでしょう。

ただ、このように自然環境に強く、栄養価が高いものがあることを知ると、良くも悪くも、多くの方々が飛びつくのが世の常。

テフは、世界中で注目された後に多くの方々が食べるようになったことにより、

一時期はエチオピアの方々の主食の確保が危惧され、エチオピアからの輸出が禁止されてしまったのだとか。

現在は、アメリカやその他の国々でもテフを栽培するようになり、

日本では、エチオピア産のものだけでなく、アメリカやその他の国々で収穫されたテフを購入できるようになっています。

きっと、流通経路が十分に確保されたlこともあり、身近な場所でテフの名を目にしたり、改めて注目されたりしているのでしょうね。

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この、ゴマよりも小さい粉のようなテフですが、含まれている栄養素は、炭水化物やたんぱく質、脂質に食物繊維、ビタミンC、ビタミンB群に留まらず、

鉄分、カルシウム、亜鉛、カリウム、銅、リン、マンガン、ナトリウムといったミネラル、

必須脂肪酸や必須アミノ酸などまでもが含まれた、とてもバランスがとれた栄養豊富な食材です。

テフには、いくつかの種類があるため、種類によって栄養価に多少の差はあるものの、

鉄分量はホウレン草の4倍~8倍、カルシウムは牛乳の1.5倍などと言われているのだそう。

しかも、浮腫みの解消や美肌、貧血予防、骨粗鬆症予防、

コレステロールを適正に保つように働いたり、デトックス効果にまで働く栄養素がギュッと詰まっているのだから、世界中の方が飛びつくのも分かるような気がします。

食べ方は簡単で、お米1合に対して大さじ一杯を混ぜて炊いたり、ホットケーキやクッキーといったお菓子作りの際に生地に混ぜ込んだり、

スープやヨーグルトに混ぜるなどして、いつものメニューの栄養バランスを整えるようなイメージで使うと良いようです。

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私が初めて経験したテフは、パン生地に混ぜ込まれていたのですが、お味は全くしませんでした。

テフが入っていますと言われなければ、テフが入っていることには気が付かないでしょうし、

トッピングに使ってあったとしても、芥子の実か何かかしらと思うくらいだったのではないかと思います。

しかし、栄養価は抜群ですので、好き嫌いが多いご家族のメニューに混ぜ込んだり、

思うように食事が喉を通らない時には食べられるものに混ぜ込んだり、

日頃の栄養の偏りを、ワンスプーンで無理なく整える。という使い方をするのも手ではないでしょうか。

正直、とても地味な見た目と味、食感ですが、テフを目にする機会、口にする機会がありましたら、

今回のお話をちらりと思い出していただきまして、一度、召し上がってみてはいかがでしょうか。

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