幸せのレシピ集

cawaiiとみんなでつくる幸せのレシピ集。皆様の毎日に幸せや歓びや感動が溢れますように。

画面越しのキュートなあの子に首ったけ。

f:id:hiiragi1111:20190512122448j:plain

友人が犬を飼い始めた。

普段はキリッとしているタイプの友人なのだけれど、子犬の、まだまだ体が小さく、縫いぐるみのようにコロンとしたフォルムと友人のそばを片時も離れない姿に、首ったけである。

私も犬を飼っていたことがあり、その気持ちは非常に共感できるところなのだけれど、あまりにも頻繁に画像や動画が送られてくるものだから思わず、送りすぎだと突っ込んだ。

そう言いつつも実際のところは、犬と猫の多頭飼いを夢見ている私も既に、画面を通して友人宅にやってきた新入りに癒されているのだけれど。

そんな私の胸の内を知ってか知らでか、友人の愛が溢れている視線によって撮られた画像や動画を知らせるランプは止む気配がない。

しかし、いつの間にかそのランプの点灯を待っている自分に気付き、友人同様に首ったけなのだと知るのである。

私のライフスタイルを思うと夢の域を出ないその夢を、画面越しに疑似体験させてもらっているようなこの頃だ。

f:id:hiiragi1111:20190512122424j:plain

今では当たり前のように、何かものごとに夢中になっている様子や、誰かに恋心を抱き夢中になることに対して使う「首ったけ」という表現だけれども、

もとは、何かが足もとから首の高さまで積り重なる様子を表現するときに使われていたそうで、首丈(くびたけ)と記されていたという。

意味も現在とは異なっており、積もり積もった借金を表現するときなど、あまり好ましいシチュエーションではない状況に使われていたのだとか。

そんな首丈(くびたけ)という言葉が、装いも新たに?「首ったけ」という言葉で使われるようになったのは江戸時代。

足もとから首の高さまで積り重なる様子がもとになっていることには変わりないのだけれど、

これを、ある対象に対して抱く深い気持ちや、夢中になる様子と重ね合わせて、主に色恋ごとに使われるようになったのだ。

色恋に関する言葉を遡ると、江戸時代に本来の意味から変化を繰り返し、改めて広がり定着したような言葉というものがある。

そのような背景に触れるとき、その時代を生きていた人々の関心ごとが透けて見えてくるようで面白い。

f:id:hiiragi1111:20190512122342j:plain

時代も人も、その時々の時代の空気を纏いながら行きつ戻りつを繰り返し進んでいるけれど、行きつく先は何処なのか。

そのようなことを頭の片隅で思いつつ、今日も友人から送られてくるであろう動画の中のキュートなあの子に首ったけである。

画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/

大人の甘味で粋な時間を。

f:id:hiiragi1111:20190510174444j:plain

久しぶりに豆かんを口にした。

豆かんは、みつ豆やあんみつに入っている赤茶色をした豆をメインに、寒天と黒密を合わせた大人のデザートである。

中には、子どもの頃から豆かんが好きだという粋な方もいらっしゃるかもしれないのだけれど、私は子どもの頃、みつ豆やあんみつに入っている、あの赤茶色の豆を邪魔もの扱いしていた口である。

今思えば、黒密や餡子、アイスクリームといったものの合間に口にする豆はほんのりとしょっぱく、あの塩味が箸休めのような役割を果たしていたことが分かるけれど、

“粋”とは無縁だった子ども時代は、あの乾いた食感を持った赤茶色の豆の良さを全く、理解できていなかったのだ。

f:id:hiiragi1111:20190510174249j:plain

そして、その時は不意に訪れるのである。

大人になり、知人に連れられて素敵な甘味処へ行ったのだけれど、あまりにも心惹かれるメニューがずらりとメニュー表に並んでいたこともあり、知人にこのお店のおすすめは何かと尋ねることにした。

すると、このお店で一番のおすすめは豆かんだと言うではないか。

「豆かん」をすすめられたときの私の脳内では、どうしておすすめなど聞いてしまったのだろうかと、後悔が騒ぎ出したけれど腹を決め、豆かんを注文してみたのだ。

すると、私がこれまで口にしてきた豆は何だったのだろうかと思うほどに、しっとりほくほくとした食感に炊きあげられた、しっかりとした豆の味が感じられる豆だったのだ。

その日からだ、赤えんどう豆を邪魔もの扱いしなくなったのは。

それでも、豆かんとあんみつがあれば、分かり易い華やかさを持ったあんみつに手が伸びることの方が断然多いのだけれど、美味しい豆かん探しも捨てがたい楽しみである。

f:id:hiiragi1111:20190510174519j:plain
先程から「赤茶色の豆」と言っている豆だけれど、正確には「赤えんどう豆」である。

えんどう豆は、成熟すると品種ならではの色に変化するため最終的な色は異なるけれど、

どの種類も、絹さや、グリーンピース、えんどう豆と成熟していく過程ならではの味を楽しむことができるという。

世界で日本食や日本人パティシエやショコラティエのスイーツが注目されてはいるけれど、そもそも海外では日本のように豆を甘くして食べるという習慣や発想を持たない国が多いため、

えんどう豆の中でも、収穫されたほとんどが和菓子の材料になるという赤えんどう豆の消費者は、ほぼほぼ日本人ということになるようだ。

気温の変化と共に、ひんやりとしたデザートの美味しさが増す季節でもあります。

機会がありました際には、赤えんどう豆の優しい甘さを味わってみてはいかがでしょうか。

画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/

男時と女時の波に身を任せ。

f:id:hiiragi1111:20190510111807j:plain

ツイている、そう思うようなことが2、3続いた。

友人に、昨夜、肌触りが良いお気に入りのパジャマで眠ったから元気を充電できたからだろうか?と言うと、楽観的すぎると言って笑われてしまったけれど、多分、今の私は私が思う以上に心身が軽やかなのだろうと思うことにした。

確か、このような良き事が重なったり続いたりと、自分や時の流れに勢いがあるときのことを「男時(おどき)」と言う。

男時(おどき)とくれば「女時(めどき)」もあるのだけれど、女時(めどき)は男時(おどき)とは真逆で、

何をどうしてみても上手くいかず、自分に対しても自信がなくなり、不安で勢いも無いようなときのことを指す言葉だ。

一見すると男尊女卑を思わせる言葉で、今の時代にはナンセンスだと言われ兼ねないのだけれど、

これは決して性差別的な表現ではなく、古より男性を陽とし、女性を陰とする陰陽五行説の考え方をもとにした表現で、

能楽の世界をまとめ上げたと言われている世阿弥という役者が、芸事に絡めて語った言葉だという。

男性にも「女時(めどき)」があり、女性にも「男時(おどき)」があるし、

個人だけでなく、各々が身を置いている様々なチームの中、

例えば会社や家族、市町村や都道府県、国もある意味チームと見て取れるけれど、そのようなチームの中にも、「男時(おどき)」「女時(めどき)」の時や流れがあるということである。

そして、ものごとというものは、時の流れが関係するもので、誰にでもツイているときと、そうでないときがあるものなのだから、

無理に逆らおうとせずに受け入れて、「男時(おどき)」のときには調子に乗り過ぎないように注意し、「女時(おどき)」のときには必要以上に落ち込まず、広い視野でものごとを見て、感じて、自分自身を整えるための言葉として使われていたようである。

f:id:hiiragi1111:20190510112007j:plain

当時は大失敗だと思っていたことが数年後、貴重な経験だったと感じることがあるし、

失敗したことによって方向転換しなくてはいけない状況になったけれど、今思えば、あの方向転換は自分にとっての正解だったということもよくある話だ。

何が失敗で何か正解か、単純に分かることは、実際のところそう多くはないのかもしれない。

そう思うと、必要以上に不安になることも調子に乗りすぎてしまうことも減り、肩に入っていた力がストンと抜けるような気がしたりもして。

とりあえず、いくつか続いたラッキーをムフフ♪としっかり喜んで、

今宵も肌触りが良いお気に入りのパジャマで眠りにつこうと思った日。

画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/

イチョウの木が放っている瑞々しさと生きる知恵。

f:id:hiiragi1111:20190509225225j:plain

自宅側にあるイチョウの街路樹が、いつの間にか緑色の葉に覆われていた。

数か月前までは、冬の名残を纏ったかのような裸木だったというのに、あっという間である。

途切れ途切れに表れるイチョウの木陰の中を歩きながら、色々なことを思い出した。

私が通っていた高校には、校舎と校舎の間にできた細長い形状をした中庭があった。

距離にして50メートル程の中庭で、その両端にはイチョウの木が植えられていた。

この時季は、街路樹と同じように、空へ横へ斜めへと伸びた幹や枝を、緑色をした葉が覆い、程よい木陰を作ってくれていた。

秋になれば、ドラマに出てきそうなイチョウ並木と言うと褒め過ぎだけれども、「それ風の」黄色い景色が広がる場所だった。

卒業してから一度も足を踏み入れることなく今に至っているため、あのイチョウ並木が今も在るのかは分からないけれど、良い景色だったと時々思い出す。

f:id:hiiragi1111:20190509225657j:plain

あるとき、仕事をご一緒していた方との雑談の中でそのような話をしたところ、学校だけでなく、お寺や神社にもイチョウの木が植えられていることが多いけれど、どうしてか分かる?と尋ねられた。

その方のご実家はお寺だと聞いたことがあったものだから、お寺に植えられているイチョウの木を想像しながら考えてみたのだけれど、それらしい答えが見当たらず、教えていただくことにした。

イチョウは、他の植物と比べると幹や枝、葉っぱに含まれている水分が多いという特徴を持っているという。

だから、学校やお寺、神社などでは、このイチョウの性質を活かして、火災が起きた際には被害を最小限に抑えられるように、他所から出た火災の火の粉で火事を起こしてしまわないようにと、火伏せ(ひぶせ)の役割で植えているのだそうだ。

f:id:hiiragi1111:20190509225527j:plain
そう言われて思い返すと、猛暑と言われる夏の日にイチョウ並木の下を歩くと、心なしかヒンヤリと感じていたし、

黄色く色づいたイチョウの落ち葉は、枯れ葉と言うには乾ききってはおらず、しっとりとしていたことに気が付いた。

イチョウは、勝手に地面から芽を出して育つ植物ではないそうで、必ず人の手によって植えられていることが、ほとんどだと言う。

今は、美観目的や日除け目的で植えられていることも多いのかもしれないのだけれど、

もともとは、木造の建物が当たり前だった時代の先人たちによる生きる知恵が、私たちの生活をさり気無く見守ってくれている証でもあったそうだ。

今年も順調に葉を茂らせはじめたイチョウの木の下で感じた瑞々しさに、そのような記憶を引き出された午後である。

イチョウの木の側を通る機会がありました際には、イチョウの木が放っている瑞々しさを感じてみてはいかがでしょうか。

画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/

ロックケーキに忍ばせてある“あるある”を楽しむ。

f:id:hiiragi1111:20190509175236j:plain

洋菓子店内を見ていると袋詰めされたロックケーキに目が留まった。

ロックケーキとは、英国でスコーンと同じくらい親しまれているお菓子で、表面はサクッと中はしっとりとしたスコーンとクッキーの間を取ったような食感のお菓子である。

生地には、チョコチップやレーズン、好みのドライフルーツなどを生地に練り込むため、家庭の味があったりもする。

形を均等に整えたりはせず、天板に適当に落として焼き上げるため、子どもたちを交えたお菓子作りのメニューに選ばれることも多く、

その焼き上がりがゴツゴツとした岩のように見えることから岩のようなケーキ、ロックケーキと呼ばれている。

f:id:hiiragi1111:20190509174740j:plain

私の中でロックケーキと言えば、『ハリー・ポッターと賢者の石』である。

メインストーリーを追う中にも心惹かれるシーンというものはあるのだけれど、それ以外で私が好きなシーンのひとつに、ハリー・ポッターがロックケーキを食べるシーンというものがある。

ストーリーの中でハリーと彼の友人ロンは、「禁じられた森」に住む森の門番、ハグリッドに会いに行く。

ハグリッドは、モフモフとボリューム豊かな髭を蓄えた大男で、ハリー・ポッターに登場する人物の中でも人気が高い人物なのだけれど、その彼が、手作りのロックケーキと紅茶でハリーとロンをもてなすのだ。

しかし、彼が作ったロックケーキは本来のそれとは異なり、顎が外れてしまいそうなくらい、歯が折れてしまいそうなくらい固い仕上がり。

ハリーとロンが、このロックケーキを口にした瞬間に「固い」と言ってしまっても不思議ではないようなシーンなのだけれど、

彼ら2人は、ハグリッドのおもてなしの気持ちを受け取り、固いロックケーキを美味しそうなフリをして食べる。

私は、この様子に口元が緩んでしまうのだ。

この何気ないシーンの魅力はこれだけではない。

私も、あるご家庭で振舞っていただいたロックケーキが、カチカチに凍ったあずきバーのように固かったことがあり、このシーンは“英国あるある”なのではないかと思っている。

更に、ハグリッドが作った固いロックケーキだけれど、ロックケーキはレシピも工程もとてもシンプル。

しかし、生地を練りすぎてしまうと小麦粉に含まれているグルテンが出すぎて固くなってしまうという注意ポイントがある。

ハグリッドは心優しいけれど大男ゆえに力も強いため、彼が作るロックケーキは自然と固くなってしまうことを盛り込んでいるのではないだろうかと想像させられるシーンでもあるのだ。

f:id:hiiragi1111:20190509174916j:plain

ロックケーキを目にして、このようなシーンを思い出したものだから、ロックケーキを食べたい気持ちが抑えられず、一袋いただいて帰ることにした。

小説や絵本の中に登場する食べ物は、とても魅力的である。

本の中の世界でしか味わうことができないものもあるけれど、今回は現実世界でも味わうことができる食べ物でラッキーだった。

『ハリー・ポッターと賢者の石』を読んだり観たりする機会がありました際には、是非、ロックケーキを物語のおともにどうぞ。

ロックケーキの雰囲気を手軽に味わいたいという場合は、カントリーマームをレンジで少し温めて、いかがでしょうか。

画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/

半分叶った麦畑デビュー。

f:id:hiiragi1111:20190509151601j:plain

その日は、目的地を目指して自然豊かな田舎道を車で走っていた。

車窓から見える景色は、瑞々しさ溢れる緑色に覆われていた。

緑色は安心感や調和をもたらしてくれると言われている色なのだけれど、中間色ということもあり、そばにある色によって人に与える印象が変わる色でもある。

また、緑色は黄色と青色を混ぜて作ることができることもあり、色のトーンによっては黄色や青色が持つ印象に似た印象を感じることもある色だ。

心理面に与える効果として挙げられるのは、人をリラックスさせながら心身の緊張感を緩和し、心と体、疲れた目を癒しつつ、気持ちを穏やかに整えてくれるといった効果である。

ここ最近では、老若男女問わず多くの方が利用する病院などの内装に使う色に選ばれる機会が増えていると聞く色でもある。

f:id:hiiragi1111:20190509151852j:plain

そのような癒し効果抜群の瑞々しさ溢れる緑色と、春ならではの柔らかい青空の青を車窓から眺めていたのだけれど、

その延々と続いている緑色の正体が麦だということに気付き、思わず体をぐいっと窓へ押し付けてしまった。

私はこれまで、麦畑というものを実際の目で見たことがなかったため、初麦畑に夢中になった。

興奮が落ち着いた頃、もしかしたら、目の前のそれが麦だと気付かずにいただけで、本当は幾度も麦畑を目にしたことがあったのではないだろうかという思いも脳裏を過ったのだけれど、せっかくの意識あっての“初めて”である。

この日を、麦畑デビューデーにすることにした。

収穫が近づいている麦は、実がみっしりと詰まっていることが車内から見ても分かるほどで、それらが風に乗って踊るように揺れる姿は、ただただ心地よかった。

目の前で揺れる麦の穂全てが黄金色に染まる収穫直前の景色を目にしたら、きっと、ジブリ作品内に登場する名言“その者蒼き衣を纏いて金色の野に降りたつべし。”を想像してしまいそうだと思いながら、麦畑を通り過ぎた。

f:id:hiiragi1111:20190509152050j:plain
麦秋(ばくしゅう/むぎあき)の頃の麦畑をこの目で見てみたいという私の願いは、もう少しお預けのようだけれど、半分くらいは叶ったぞ、と思える景色であった。

それにしても、自然の色は人に優しい。

心なしか、目の奥が軽くなったように思う。

お疲れ気味だという方、周りにある植物の緑色を眺めてみてはいかがでしょうか。

今日も心穏やかな1日となりますように☆彡

関連記事:

画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/

“ういろうさん”の“ういろう”は、お菓子?お薬?

f:id:hiiragi1111:20190509121346j:plain

小腹を満たすため、キッチンでお茶の準備を始めた。

子どもの頃から密かに“好き”と感じている外郎(ういろう)に静かにテンションが上がる。

あの、むっちりぷるんとした食感と優しい甘さ、いい意味で想像を裏切ってくれる口解けの良さは、癖になる。

しかも、様々なご当地外郎(ういろう)があり、違いを楽しむのもいい。

合わせるお茶は何にしよう。

茶葉が並ぶ戸棚を眺めながらシンプルな紅茶葉を取り出した。

ここは、日本茶か中国茶の類が合うのかもしれないけれど、好きなものと好きなものを好きに合わせるティータイムは、自宅ならではの自由と喜びがある。

そして、ここで、細かいことに縛られるなんてナンセンスだ。

子どもの頃から口にしていた和菓子のひとつ、外郎(ういろう)。

本日のワタクシ、昔から知っていたかのように漢字で外郎(ういろう)と記しているけれど、そう記すのだと知ったのは最近、ここ1年以内のことである。

大抵の包みには「ういろう」と平仮名で記されているため、漢字があるとは思いもしなかったのだ。

知ったところで、私の中の“ういろう”は“ういろう”なのだけれど、せっかくなので、こうして漢字を使ってみているわけである。

この漢字表記を知ったとき、外郎(ういろう)には薬の外郎とお菓子の外郎があることも知った。

今回は、そのようなお話を少しだけ。

f:id:hiiragi1111:20190509121617j:plain

薬の「ういろう」は、正式には「透頂香(とうちんこう)」と言うそうだ。

もとは、薬の調達をお役目としていた中国の官職、陳宗敬という方が日本に帰化した際、

官職名にあった「外郎」という部分をとり、陳外郎(ちんういろう)と名乗り、様々な症状に効く万能漢方薬「透頂香(とんちんこう)」を伝えたことが始まりなのだとか。

この漢方薬は立派な名を持ってはいたけれど、人々からは、外郎(ういろう)さんの薬ということで外郎(ういろう)の薬、略して外郎と呼ばれるように。

と同時に、外郎(ういろう)さんたちは、当時、薬の材料として使われていた高価な黒糖を使い、国賓をおもてなしする為のお菓子も作ったそう。

このお菓子も非常に評判がよく、こちらは外郎(ういろう)さんのお菓子ということで外郎(ういろう)のお菓子、略して外郎と呼ばれるように。

そして、このお菓子の外郎(ういろう)を作っていた職人たちが後に各地に散らばり、各々の場所で外郎(ういろう)を作るようになったことから、現在、ご当地ういろうが多数存在しているという説があるそうだ。

f:id:hiiragi1111:20190509121550j:plain

外郎さんのお菓子だったと分かれば、外郎(ういろう)という表記も、すんなりと覚えられそうな気もするのだけれど、私の中で慣れ親しんできた“ういろう”は“ういろう”である。

これから先、外郎(ういろう)と漢字で記す機会はそう多くはないと思うけれど、どこかで外郎の文字を目にした際には「ういろう」と読めそうな気がしている。

ちなみに、この外郎家の外郎(ういろう)は、神奈川県小田原市にある「株式会社ういろう」で購入可能とのこと。

一度くらいは、外郎の始まりの味である“外郎さんの外郎を”と思うティータイムである。

外郎(ういろう)を召し上がる機会がりました際には、チラリと思い出していただけましたら幸いです。

関連リンク:

画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/

ワンダーランドのゾンビローズ。

f:id:hiiragi1111:20190509100618j:plain

先月いただいたピンク色をしたバラがそろそろ終わりを迎えようとしている。

女性の手のひらサイズよりも一回りほど大きなバラで、3週間ほど楽しませていただいているものだ。

薄っすらとグリーンがかった淡いピンク色のバラは初めてだったものだから、品種を調べてみたのだけれど分からず、ただただキレイだなと眺めながら過ごしている。

バラの花を見ると、イギリスに住んでいた頃の知人宅の庭に植えられていた、色とりどりのバラを思い出すことがある。

お茶をいただきながら、お手入れが行き届いているバラを眺めつつ、様々なことを教えていただいたように思う。

知人宅のバラは色も品種も様々だったけれど雑多な印象はなく、私は「ここはワンダーランドみたいだ」としばしば発していた。

f:id:hiiragi1111:20190509100714j:plain
あるとき、どのようにしてこれだけの品種のバラを集めたのかと尋ねると、購入したバラは1、2種類だけで、あとは全て贈り物としていただいた切り花のバラを再生させたものだと返ってきた。

私は、両手両足の指の数を足しても足りないほどの種類が混在している庭へ視線を向けながら、これら全部?と何度も聞き返したように思う。

ガーデニングを楽しんでいる方々にとっては良く知られている方法らしいのだけれど、

切り花のバラの花をある程度楽しんだ後、再度水切りをして茎の下部を切り落とし、花と葉っぱも切り落とし、シンプルな茎のみの姿に整えるのだそう。

これを、穴を開けたジャガイモに刺し込み、庭やプランターなどに植えるという。

そして、丸裸になった茎を守るためにペットボトルの底をカットしてキャップを取り除いたものをバラの茎に被せ、水はペットボトルの周りの土から与える。

こうして育てると1か月半から2か月ほどでバラが芽吹き、再生するというのだ。

f:id:hiiragi1111:20190509100742j:plain

知人曰く、このガーデニング方法で、いただいたバラを再生させていたら、いつの間にかバラ園のような庭が出来上がっていたのだとか。

いつ、誰からか頂いたバラなのかまでは思い出せないくらいの数になってしまったけれど、この庭は私が受け取った、たくさんのラブでいっぱいなのだとも言っていた。

やはり、ここはワンダーランドだ。

そう思いながら話を聞いている私に知人は、我が家のバラはゾンビローズでもあるのだけれど、と笑った。

私は、そのゾンビローズという言葉が印象的過ぎたものだから、この日の話はよく覚えている。

もちろん、ジャガイモを使ったガーデニング方法とともに。

マンション暮らしということもあり、私はゾンビローズを育てたことは無いのだけれど、いつかトライしてみたいかも、と思っている。

画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/

孔雀の羽を連想させる深くて美しいグリーンの世界。

f:id:hiiragi1111:20190508162549j:plain

道ですれ違った女性が、羽を広げた孔雀のように見える扇子で扇いでいた。

すれ違うときに、ふわりと鼻先をくすぐったのは白檀の香りだったように思う。

僅かな時間のことだったけれど、扇子の美しさと上品な香りが、私の脳裏に強く焼き付いた。

自宅に戻っても尚、思い返される扇子の影響だろう。

私は久しぶりマラカイトのお手入れをすることにした。

マラカイトは孔雀石という和名を持つ石で、深くて美しいグリーンと、孔雀の羽を連想させるような模様を持っている。

この石は古代エジプト、ギリシャ、ローマ時代には既に発見されていた歴史ある石ということもあり、様々な言い伝えを持っている石である。

今の時代のように色を人工的に作り出すことが難しかった時代、このような艶やかな天然色をもつ石はさぞ、多くの人を魅了したことだろうと思う。

この石は、身に着けている人に危険が近づくと砕けてしまうと言われており、古くから子どもや旅人を護るお守りとして知られている。

他にも石の模様が目のようにも見えることから、ものごとを見通したり、邪悪なものを見定めて祓う石としても大切にされてきた歴史を持っている。

私は随分と前に人生のお守りにとの意味を込めていただいたものが一つあり、時々、ジュエリーボックスから取り出してはお手入れをしているのだけれど、不思議な魅力を纏った石という印象が強い。

f:id:hiiragi1111:20190508162532j:plain

マラカイトと言えば、クレオパトラがアイシャドウの材料として使用していた石だという記述を見かけることがある。

うろ覚えではあるのだけれど、ここで登場するクレオパトラは、世界三大美女の一人であるクレオパトラではなく、一代前のクレオパトラだとも言われている。

彼女はマラカイトを粉末にしたものにオイルを加えてペーストを作り、アイシャドウとして使っていたのだとか。

古代エジプトメイクを想像すると何となく分かるような気がするのだけれど、これに関しては賛否両論あることも有名である。

マラカイトは刺激が強い成分で構成されているそうで、これを目の周りに使うと、瞼の荒れや目への刺激を引き起こす懸念があるため、マラカイトをアイシャドウとして使うことは難しいのではないかという話だ。

しかし、粉末にし易い石であることや、絵の具の材料として使うことができるほどの発色の良さを思うと、

もしかしたら、マラカイトをアイシャドウとして使うことができる技術や特別なレシピがあったのではないだろうか、などと勝手な想像を膨らませたりもする。

まぁこれは、私の勝手な想像の範疇なので、真実は当時の人たちのみぞ知る、ということなのだけれど。

自然が生み出す色は、いつだって完璧で人々を魅了する。

マラカイト(和名:孔雀石)を目にする機会がありました際には、今回の何かしらをチラリと思い出していただき、その美しいグリーンをご堪能あれ。

関連記事:

画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/

歌舞伎は一所。

f:id:hiiragi1111:20190508132819j:plain

偶然立ち寄ったアンテナショップ内で、隈取(くまどり)をモチーフにしたキャンディーを見つけた。

隈取(くまどり)とは、歌舞伎で使われているお化粧のことで、顔を白く塗った上から、赤、青、茶、黒といった色を使ってデザインされているのだけれど、

隈取(くまどり)は単なるデザインではなく、このお化粧を見るだけでも、その人物が物語の中でどのような役割なのか、どのような感情を抱いているのかが分かるようになっているのだ。

「単なるデザイン」というような表現を使ってしまったけれど、デザインそのものも優れているため、様々な商品アイデアに使われていたりもする。

その日私が見つけた、金太郎飴をカットしたような隈取(くまどり)キャンディーなどは、手頃な価格で日本らしさを持ち帰ることができるため、外国人観光客からの人気も高いのではないだろうかと想像したりする。

私自身、非常にベタではあるのだけれど、この手のキャンディーを幾度となく贈り物に利用させていただいたのだけれど、

繊細さとダイナミックさを兼ね備えた隈取(くまどり)に興味を抱く方、面白がる方が多かったように思う。

歌舞伎と聞いて私が思い出すことの一つに、「一所懸命(いっしょけんめい)」という言葉がある。

よく「一生懸命(いっしょうけんめい)」と「一所懸命(いっしょけんめい)」の違いは何か、どちらが正しいのか、といった話を見聞きするのだけれど、この言葉からも少しだけ歌舞伎に触れることができるのだ。

今回は、そのようなお話をと思っております。

ご興味ありましたら、ちらりとのぞいていって下さいませ。

f:id:hiiragi1111:20190508132833j:plain

「一生懸命」と「一所懸命」はどちらも間違ってはいないのですが、新聞や雑誌などでは「一生懸命」に統一していることが多いので、迷ったときには「一生懸命」を使うと良いかと思います。

ただ、本来の意味としてどちらも同じなのかと言えば、違いがあります。

もともと「一所懸命」は、武士がご褒美などで頂いた土地や領土を命懸けで守ることを意味していたと言います。

頂いた土地や領土である、その一か所(=自分の領地)に対しての想いが込められているので「一所懸命」だったのだそう。

これが時代を経る中で、様々なものごとに対して命を懸けて、力の限り、と言った意味合いが含まれるようなり「一所」だけでなく「一生」という使い分けのようなものが生まれ、両方の言葉が同じ様な意味で使われ始めたのだとか。

このような状況を思えば、最初から存在していた「一所懸命」が正しく、後に生まれた「一生懸命」は間違いという認識も理解できるのですが、

「一所」よりも「一生」の方が表現したい気持ちを伝えやすい、分かり易い、感覚として理解できるなどと感じて使う人が増えたことから、

間違いだった「一生懸命」が市民権を得て、現在は「一生懸命(いっしょうけんめい)」がメイン使いされているようです。

ただ、例外もあり、歌舞伎の世界では「一所懸命」が使われていると言います。

歌舞伎好きの知人の話によると、歌舞伎世界では先祖代々受け継いできた屋号を守り続けていくという使命があります。

このことが、一か所を命を懸けて守り続けていくことに重なることから、歌舞伎世界では「一所懸命(いっしょけんめい)」が使われているようです。

f:id:hiiragi1111:20190508133131j:plain

この言葉を万人に対して使いたいのであれば「一生懸命」を使い、

命懸けで、自分の一生をかけてという思いを表現するために使う場合は「一生懸命」を、

一カ所を守りぬくという思いを表現したいのであれば「一所懸命」を使う、

と覚えておくと、使い分けや正誤で迷うことはないのではないかと思います。

歌舞伎役者の方々のご挨拶などの中で「一所懸命」を耳にする機会がありました際には、そこに込められている立場や思いにも触れてみてはいかがでしょうか。

画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/