和食のお店に入った時の出来事だ。
美味しそうな和定食が品の良いお膳に並べられ、運ばれてきた。
一緒に居た友人と美味しそうだね、と言いながらお膳に視線を落としていた。
「「いただきます」」
お箸に触れたときに、ご飯茶椀と汁物椀が逆であることに気が付いた。
友人のお膳へ目を向けてみたけれど、私のお膳だけが逆だったのできっと慌てていたのだろうと思いお椀の位置を変えていると、
お茶を運んできてくださったお店の方が、その事に気づいたようだった。
慌てて謝られたのだけれども、最近はご飯茶椀の位置を習わないこともあるみたいで、とお店の方が仰っていたことが印象的だった。
時代の変化とともに、その時代に合った言葉や作法が生まれるように、このようなことは日本に限ったことではなく、似たようなことがどこの国でも起きているのだろうし、これまでだって起きてきたのだろうけれど、
和食文化が途絶えたわけではない中で、消えていく何かが色々と増えているのだとしたら、少し残念な思いがした。
そもそも、なぜご飯は左に置かれているのか。
これは、日本では古から左の方が位が高いとされており、重要なものは左側に配置する「左上位」という考え方がもとになっている。
そこに、日本人が多くの恵みが詰まったお米に対して抱いていた「ありがたく、大切に頂きます」という気持ちをお膳の中では、ご飯茶椀を左に配置することで表現しているのだそうだ。
この「左上位」説の他にも、汁物椀がご飯茶碗の奥にあった場合、
汁物椀を手にとって口元へ運ぶ時に、位の高い位置にあるご飯碗の上を通すことが無作法だという説や、
一般的な汁物椀はお椀の高さが低めなので、奥に配置された主菜を取りやすくする為に、右側の前に置かれているという説などもあるようだけれども、
「左上位」に基づいているという考え方が一般的と言われている。
私たち日本人にとって当たり前の行動が、海外メディアを通して日本人の国民性は素晴らしいと世界に報道されることがある。
これはきっと、様々なものごとに対して感謝の気持ちが添えられているからなのではないだろうか。
私自身が、そのような目線で日本人の暮らしを改めて見直せるようになってから、まだ日は浅いように思うけれど、
多くの当たり前の中に、溢れんばかりの感謝が散りばめられていることを、当たり前のように受け継いでいる。
このこと自体、とても素敵なことなのだと感じる今日この頃である。