久しぶりに朝から天然石のチェックをしていたのだけれど、
初めて対面する天然石は、
若干の緊張感をもっているような、少しピリッとした空気感がある。
触れているうちに緊張感が和らぐのか、私の方が慣れるのか、
石特有の色味が静かに力強く解き放たれ始めたように感じることがある。
やはり自然のものが持つ色味にはいつだって魅了される。
そのような事を思いながら周りを片付け、
テレビのリモコンスイッチを押すと赤毛のアンを放映していた。
いつぶりだろうか、赤毛のアン。
もう随分と長い間触れる機会がなかったけれど、
画面の中のアンは相変わらず伸び伸びとしているように見えた。
そういえば、アンは作中でダイヤモンドの事を嫌いだと言っている。
ダイヤモンドを目にしたことが無かった時、
本を読んでダイヤモンドがどういう石なのか想像していたらしいのだ。
その時の彼女の想像内でのダイヤモンドは、紫色をした光る石だったようで、
実際に本物のダイヤモンドを目にした時、ガッカリして泣いてしまったのだとか。
そして、大人になって結婚をすることになったアンは、
彼が「真珠は涙をあらわすからダイヤモンドを」と言ってくれたにも関わらず
「涙は幸せなときもこぼれるから」 と
ダイヤモンドではなく真珠のエンゲージリングを貰っていた。
この作品が書かれた頃はダイヤモンドのカット技術は、今ほど発達していなかったし、
小さな子供にカラフルなキャンディーを差し出して、好きなものをどうぞ。と言ったら
9割がた透明のキャンディーではなく色のついたキャンディーを選ぶように
幼いアンの言動を作者がそのような描写をしたとしてもおかしくはないのだろうけれど。
ふと、私はいつから無色透明なダイヤモンドのことを
きれいだと思うようになったのだろう。と思った。
ものの見え方、感じ方、価値観というものは、子どもと大人で異なる時期というものがある。
もしかしたら無色透明なものに心が魅せられるようになるのは、
大人の階段を上った証拠なのかもしれない。
その証拠と言えるのかはわからないけれど、
結婚後、更に年月を経てもっと大人になったアンは、
夫からダイヤモンドのネックレス贈られるのだけれどもガッカリして泣くことはなかった。
本当のダイヤモンドの価値を知ることができるのは
酸いも甘いも噛分けた大人になってからなのかもしれない。
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