スマートフォンからピコーンとメッセージ受信のお知らせが届く。
画面をタップすると、
「ジューサーとミキサーのどちらかを買おうかと思っているんだけど、どっちの方が使える?」とのメッセージ。
これを尋ねられるのも幾度目のことだろうか。
どちらの方が使えるのか、
それはどのような目的で使うのかによって大きく異なると答えると、
「もしも」に備えて、できるだけ使い道が多い方を選んでおきたいのだとか。
私もそのような基準で何度もジューサーを選んだ。
だって、「あれも、これも、こんなことだって出来ますよ!」という家電側のアピールは、
自分が利用する、しないは別にして、何だかお得な気がするし、ワクワクする。
そして、あの取り換え、付け替えアイテムの勢揃い感も購買意欲をさり気なく刺激するのだ。
だけれども、結局のところ自分の真の目的以外の機能の出番というのはそう多くはない、
ということを購入後に身をもって体験することとなる。
あまり使わないものに、限られたスペースの一部を貸し出しだしている時のあのキモチ。
ちょっぴり複雑である。
処分する時も大して使われていない取り換え、付け替えアイテムだけが
購入時のまま時が止まっていて新品同様の状態だったりするものだから、
罪悪感と一戦交えなくてはならなくなる。
これもまた、ちょっぴり複雑である。
今の自分にとって必要のないものを削ぎ落すということは、
簡単なようでいて、なかなか手強い。
何もジューサーやミキサーに限った事ではない。
自分の生活や持ち物、体や感情、習慣、見渡せば見渡すほど、
私は「あぁぁ……」となることがある。
ここで言う「必要のないもの」というのは、無駄という意味とは少し違っている。
無駄に思えるものが気持ちを豊かにしてくれたり、
閃きを呼び込んでくれることもあるように、
判断が単純でないからこそ、手強いのだろうと思うのだ。
だから、過去の自分にとっては必要だったけれど、今の自分にとってはどうかしら?
という目線を持つということは、
自分自身をほんの少し成長させたり、生まれ変わらせる視点のひとつ、のような気がするのだ。
慣れ親しんだものとの別れは少々センチメンタルにもなるのだけれど。
あぁ……、「人」を生きるというのも、なかなか大変だ。
「だからこそ面白い」とも言い換えられるのだけれども。
自分にとって本当に大切な、必要なモノゴトをこの年末に覗いてみてはいかがでしょう。
今までの自分を支えてくれたモノゴトには感謝の気持ちを込めて手放して見ると
何かキラリ輝く今の自分に相応しい何かが舞い込んでくるかもしれません。