食事会の帰りにタクシー待ちをしながら漆黒の空を見上げると、大きな綿の様な雪がビルの隙間から見える空を白く染める勢いで降っていた。
こんな夜空を楽しめるのも期間限定。
気持ちにそのような余裕があったのは、美味しい時間を過ごすことができた後だったからだろうと思う。
外気にさらされている顔が鼻の先から次第に冷たくなっていくのを感じていると、少し離れたところからご婦人の声が聞こえてきた。
「以前、○○にすんでいらっしゃいましたよね」
「確かお嬢さんは、○○で」
「おばあさんは、お元気かしら?」
早押しクイズのボタンを連打するかのようなスピードで、片方の女性が矢継ぎ早に質問と確認を行っていく。
待ち時間の退屈しのぎと言ってしまっては失礼なのだけれど、何となくご婦人たちから目が離せなくなってしまった私は、雪と交互にちらり、ちらりと様子を伺っていた。
どれくらい、その状況が続いていただろうか。
質問する側、される側という構図は変わらぬまま時間が過ぎていた。
何度か耳に入ってくる、「あ、覚えているのよ、ちょっと待ってくださいね、もう少しだから。」という言葉が私の脳内を右往左往する。
あ!ベイカーベイカーパラドックスか。
と状況が飲み込めた私は、喉につっかえていた何かがスーッと流れ落ちて行ったような気がした。
心理現象のひとつに、ベイカーベイカーパラドクスと呼ばれているものがあるのです。
どういう現象なのかと申しますと、人の名前は思い出せないというのに、その人にまつわること、関係のあることなど、名前以外のことは次々に思い浮かぶという現象です。
皆さんもテレビに出ている方や、同窓会で久しぶりに顔を合わせた方、お仕事やご近所付き合いなどを通して過去にご一緒したことがある方など、
名前だけが、なかなか思い出せないという経験をされたことがあるのではないでしょうか。
このネーミングはアメリカンジョークが由来なのです。
ある所に、ベイカーさんという方がいらっしゃって、ベイカーさんのお仕事はパン職人(ベイカー)でした。
お仕事がパン職人だということは思い出せるのだけれども、肝心の名前を思い出すことができないという冗談から、このような心理現象をベイカーベイカーパラドックスと呼ぶようになったようです。
私たちの脳は様々な記憶を元にして日々を過ごしています。
ものごとを記憶する際には、メインとなる記憶と、それ以外の情報とを関連付けて覚えるようにで出来ています。
ただ、名前というのは名前以外の情報との関連付けが難しいものなので、目の前の方の名前以外のことは覚えているのに名前だけが出てこないということは、脳の仕組みから見てもよくあることなのです。
日本人は、このような状況に置かれた時、どちらの立場であっても「思い出さないと失礼」と感じて焦ってしまいますよね。
もしも、相手がベイカーベイカーパラドックスに陥っていると気づかれた際には、さり気なく名乗ってあげてみてくださいませ。
そうすることで、お互いに妙な汗を流さずに済みますし、穏やかな再会のひと時になるのではないかと思います。
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