私には時々、自分の意思に反して体や頭が動いてしまうことがある。
ダイニングテーブルの上に置いてあった急須を手に取り、
湯呑にお茶を注ぐつもりだったのだけれども、
その意思に反して私の体は、急須のすぐ横にあった醤油さしを手に取り、
湯呑に醤油さしの先端を傾ける。
お醤油が湯呑に入るや否や「あっ!」と声を上げる自分に肩を落としたのは一度や二度ではない。
しかもこれ、子どもの頃から時々やってしまうのだ。
そして、活字を目で追っている時の私は、頭の中で音読をする癖があるのだけれど、
その時にも似たようなことが起きる。
正しい読み方を知っているにも関わらず頭の中では別の読み方をしてしまうのだ。
なんて天邪鬼なのだろう、と頭の中で音読をしている自分に呟いてみるも返答は未だない。
先日も、そのような天邪鬼をひっそりとやらかしてしまった。
最近はインターネット関連の記事などで目にする「脆弱」という言葉。
漢字が表しているとおり、脆くて弱いという意味で使われている「ぜいじゃく」という言葉だ。
意味だって読み方だって知っている。
それなのに、どうしてだろうか。
頭の中で音読をするときに限って「きじゃく」と読んでしまいそうになるのだ。
きっと、「脆」という字に入っている「危」の部分を
視覚と脳がいち早く察知するからなのだろうと粗方の察しはついているのだけれど、
癖というものは「どうしてこのタイミングで?どうしてここで?」というシチュエーションで顔を出すものだ。
だから私は、自分のことながら、うっかり人様の前で発してしまわないか内心ハラハラしている。
そのような話を友人にポロリとこぼしたところ、友人が一瞬フリーズしたように見えた。
そして、「あ、ぜいじゃく、か……」と言って笑い始めたのだ。
幸か不幸か日常生活の中で「脆弱」という言葉を発するシチュエーションは無かったものの、
インターネット上ではよく目にしていた言葉で、
友人は頭の中で「きじゃく」と読んでいたと言うのだ。
やはり、人の脳や視覚は慣れ親しんだものを優先して認識するものなのだろう。
自分のことくらい片目を閉じていたってコントロールできると思ったら大間違い、
ということなのかもしれない。
ただ、現在は「脆弱(ぜいじゃく)」の誤読とされている「きじゃく」や、誤字とされている「危弱」が、
近い将来、「危弱(きじゃく)」として定着する日は来ない、とは言い切れないのも事実。
そう思うと、私たちが過ごしている日々は、
自分で思う以上に様々な可能性を秘めた自由な日々なのかもしれない。