幸せのレシピ集

cawaiiとみんなでつくる幸せのレシピ集。皆様の毎日に幸せや歓びや感動が溢れますように。

眼鏡、かけなくてもいいんじゃないかしら?

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風が心地よい夕暮れ時、ふらり散歩へ出かけた。

目の前には制服姿の女子高生3人が楽しそうにお喋りをしながら歩いていた。

背中に「た・の・し・い」という文字が点滅しているような空気に、

今日も平和だなぁ、などと思いながら私も歩く。

すると、「明日の席替え、ものすごく緊張する」という声が聞こえた。

直ぐに他の2人も賛同している様子で、

声のテンションが増した3人は少し先の角を曲がって私の視界から消えていった。

 

席替えもそうだったけれど、似たような緊張感は大人になっても無くなることはないように思う。

仕事やプライベート、自分が関わっているコミュニティーの中で、

初めての方とお会いする時、初めての経験が控えている時など。

人は、様々な「初めて」の前には、大なり小なり緊張するものだ。

これから会う人は、どのような人だろう、

これから経験することは、どのような経験だろう、

新しい人たちと上手く関わっていけるのだろうかと、楽しみに入り混じる緊張が顔を覗かせる。

そして、その楽しみや緊張に紛れて

自分にとって都合の良い淡い期待や希望のようなものを

無意識のうちに相手や環境に投影させていることもある。

 

この投影がある種の物差しになり、目の前に現れたモノゴトをオートマティックに計っていく。

そこには自分のこれまでの経験値や感情なども加味されている。

自分がイメージしていたこと(人)と違う、

自分が期待していたこと(人)と違う、

自分が希望していたこと(人)と違う、

などと、無意識に作った物差しが先入観として使われ、

投影したものと現実との開きが大きければ大きかったほど、心がざわつく。

 

よく、相手の良いところを見る眼鏡をかけて見れば、

そのような世界が現れ、それに伴う感情、環境、やり取りが広がっていく。

一方、相手の嫌なところを見る眼鏡をかけて見れば、

そのような世界が現れ、それに伴う感情、環境、やり取りが広がっていく、

などと表現されることがある。

とても分かりやすい例え話なので否定しているわけではないのだけれど、

私は、「その眼鏡、やめちゃえば?」と思うことがある。

「そっちの眼鏡じゃなくて、こっちの眼鏡をかけて見てごらん。」と言うよりも、

「先入観を持たずに真っ新な自分の目で見てごらん。」の方が、

過度な先入観を持つことなく、

先に広がる景色や可能性が無限に広がっているような気がするのだ。

 

もちろん、自分が見たい景色を見るための眼鏡をかけることも、

その都度、臨機応変に眼鏡をかけ替えることも

自分の日々を彩る一つの手段なのだけれど

経験を積んできている大人は眼鏡の奥が見えてしまうことだってあるし、

モノゴトの見え方はひとつだけではないことだって既に知っている。

それならば、「何があるのかしら」「自分は何を感じるのかしら、感じているのかしら」

といった気持ちをベースに、「良い」「悪い」はひとまず横に置いて目の前を眺めてみると、

自分が無意識に作った物差しに惑わされることも減っていくように思う。

惑わされることが減ることで生まれた余裕は、

関わっている相手や大切な人、モノゴトや自分自身のことを冷静に見るエネルギーや思いやり、素敵なことに気付くことが出来る目や、真実を見抜く目などに姿形を変えていくのではないかと。

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こうして少し離れた所から「人」を観察してみると、

器用なのか不器用なのかよく分からなくなることもありますが、

出来ることがあって出来ないことがある。

得意なことがあって苦手なことがある。

出来るけれど、そこそこ、まぁまぁ、それなりに、なこともある。

更に、それらが人それぞれだからこその面白さがあります。

たまには先入観も眼鏡も取っ払って、

日々を、自分を、周りを、眺めてみるのはいかがでしょうか。

あなたの目にしか見えない素敵な「何か」に気付くことができるかもしれません。

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