紙が薄茶色に焼けた古い本をダンボールの中から引っ張り出した。
両手では足りないくらいの引越を重ねている私が、
処分することなく持ち回っている本の中の一冊、だ。
風をパラパラっと本に通すと栞代わりにしていた写真のところでページが止まった。
その写真には、当時の私が所有していた本が収められていた。
あまり物を溜め込みたくない私は、本も小まめに手放すのだけれど、
手放した後で、やはり手元に置いておきたい。
そう思った時に、すぐに、その本を探すことができるよう、
背表紙だけをまとめて写真に収めておいた時期があった。
当時、インスタントカメラのチェキで遊ぶことにもはまっており、
引越前に残っていたチェキ専用フィルムを使いきろうと本棚のラインナップを収めたのだろう。
本に挟まれていたそれは、チェキ専用のフィルムだった。
だけれども、そのような写真が資料としての役目を果たすことも、
手放した本を再び手にしたいと思うことも、私には稀なことなのだと気づいてからは、
所有本を写真に収める習慣もいつの間にかなくなってしまっている。
多分、1枚しか残っていないであろう本棚を写したそれを眺めていると
『オズの魔法使い』のタイトルが目に留まった。
それは、一見、魔術でも記されているのではないかしら、と思ってしまうくらい、
不思議さと、それと紙一重の不気味さ、そして華やかさをまとった、
ひと言では表現し難い魅力的な装丁が施された洋書で、イギリスで衝動買いしたものだった。
手放してから随分と時が経っているのだけれど、
初めて手に取ったときの、体の内側からぶわっと鳥肌が立ったあの感動は、
私の体がしっかりと記憶していた。
当時、その素敵な本をイギリス人の友人に見せたことがあった。
友人は、その本をパラパラと捲りながら、日本にも「カカシ」はいるの?と尋ねてきた。
私が期待していたようなリアクションではなかったことにモヤっとしながら「カカシ」の話をした。
日本のカカシも外国のカカシも、外敵から農作物を守るという役目に大差はないのだけれど、
日本のカカシは神様の依り代の意味が濃い。
もとは、人の髪の毛や鰯の頭を焼いた時に出る臭いで
外敵から農作物を守っていたそうなのだけれども、
春の依り代は桜、秋の依り代はカカシとされ、
神様に田んぼや農作物を守ってもらおうという思いが濃くなったのだとか。
日本人らしい思考だと思う。
だけれども、人の髪の毛や鰯の頭を焼いた臭いは、
農作物を狙う外敵から守ることは出来ただろうけれど、
人にとっても心地よいものではなかっただろうに。
先人たちの苦労と、生きていくための真剣さを想像してみたりしつつ、
友人に、どうして髪の毛?どうして鰯の頭?と
眉間にしわを寄せながら引き気味に尋ねられたことも思い出した。
あの子、元気にしているかしら。
その日は、しばらくの時間、思考と思い出の寄り道を楽しんだ。
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