おっと、少年よ。それを言ってはお母さんが大変なのでは……。
ある日の皮膚科と小児内科を受診できる近所の病院でのひとこまだ。
温かみのある木目調の院内は、
よくある病院の白が解き放つ緊張感が程よく緩和されており、
小児科を受診する為に待っている子どもたちも、
何となく落ち着いて順番待ちをしているように見えた。
私は、皮膚科のお薬を処方していただくため、
本を読みながら順番待ちをしていたのだけれど、
小さな少年が母親の膝の上で向かい合って座っていた。
少年は、母親の顔に自分の顔をぐーっと近づけて
「ここ、やぶ医者?ねぇ、ママ、ここやぶ医者?」とよく通る声で詰め寄っていた。
そのような言葉を知るには少々幼くも感じたのだけれど、
これだけ様々な情報が垂れ流されている時代だ。
どこかで、やぶ医者という言葉に出会ってしまったのだろう。
その場に居合わせた人たちの中には、少年の母親に向かって
「(心中お察しします……。)」と心の中で発した人がいたかもしれない。
私も視線を読みかけの本に落としつつ、そう思っていた。
医療技術や知識に乏しい医者のことを「やぶ医者」と言うけれど、
もとは名医の代名詞だという説がある。
松尾芭蕉の弟子によると、「やぶ医者」とは腕の悪い医者のことではなく、
現在の兵庫県北部辺り(但馬国)にある養父(やぶ)市にいた名医のことを、
そう呼んでいたのだそう。
その名医は、死んだ人を蘇らせることができるくらいの凄腕な上に、
治療で得たお金を貧しい人々の薬代にすることもあり、
多くの人に慕われていたといいます。
しかし、どの時代にも便乗商法というものはあったのでしょう。
「やぶ医者」の評判を利用して養父(やぶ)から来た医者だと嘘を言い医療行為をする偽物が増え、いつの間にか、名医の代名詞から
医療技術や知識に乏しい医者を指す言葉になってしまったのだとか。
他にも「やぶ医者」のもとは、巫医(ふい)のこと。
巫(ふい)というのは、簡単に言うと祈祷や占術を使うことができる巫女のこと。
古は、病気は悪霊の仕業からくる体調不良だと考えられていたことがあり、
それを治すのは悪霊を退治できるとされていた巫女で、
結果として医師という立場も兼ねていたことから「巫医(ふい)」と名付けられたように思う。
その巫医(ふい)の中でも、その技術力が都では認められず
田舎に居るしかない巫医(ふい)のことを野巫(やぶ)と呼んでいたといい、
技術も財力もない野巫(やぶ)の診療所は、
薮をかき分けてしか行くことが出来ないような場所にあったことから、
「薮」という字を当てられて薮医者というようになったという説や、
高価な薬を揃えるだけの財力がなかったため、
藪の中から草や根を採取し適当な調剤をしていたということから
「薮」という字を当てられたという説もある。
このように「やぶ医者」という言葉には様々な説があり、
時代背景によって変化したのではないかという見方もできるため、
「やぶ医者」という言葉には、
名医と医療技術や知識に乏しい医者と、二つの顔がある。
冒頭の少年が、どちらの意味で「やぶ医者」と発していたのか、
確かめる術はないのだけれど、前者であったならば、あっぱれだ。
そのような事を思いながら帰路についた。
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