しとしとと優しい雨が降ったり、止んだりを繰り返している。
ベランダに出ると、雨の匂いを含んだしっとりと冷たい空気が在った。
2、3度深呼吸をすると、寝不足気味の脳内がしゃっきりと目覚めたような、そんな気がした。
ようやくやってきた秋の長雨に、本格的な秋の訪れを感じた。
そう言えば、「長雨」という言葉がる。
時に、「秋の長雨」と混同されることがあるけれど、私も同じものだと思っていたことがある。
同じものと思っていたというよりは、
その違いに、それほど興味がなかったといった方が正確だろう。
そのような認識だったため、わざわざ「秋の~」という前置きは要らないだろうと
無意識思っていたようで、会話の中で「秋の」という部分を省略したことがあった。
すると、「柊希さん、それは違うわよ」と指摘してくださった方がいた。
今思えば、言葉の世界の楽しさを教えてくださった方の中のおひとりのように思う。
とは言うものの、正直なことを言えば、
「空気で察してくれてもいいんじゃないかしら」と思っていた当時のワタクシ。
その方は、「想像する景色や見える景色が増えて楽しいのよ」とおっしゃった。
そのような言い方をされれば見てみたいと思うのが人の性。
気付いた時には、「どう違うんですか」と口から零れていた。
「長雨」というのは一般的に梅雨のことを指しているため、
梅雨の時期のご挨拶やお手紙などで使うと、
わざわざ「梅雨」という言葉を選ばなくても梅雨の景色を含み匂わせることができる言葉だという。
そして、「秋の長雨」は8月下旬あたりから10月頃の雨続きの日々を指しており、
この雨の日が過ぎ去れば、季節の狭間を越えて本格的な秋の到来の目印となっているのだと。
それからしばらくして、読んでいた本の中に「長雨」という言葉が登場した。
その時には、このやりとりのことなどすっかりと忘れていたのだけれど、
梅雨時期の雨だと思って読んでみると、ただ雨が降る日々だと思って読む以上に、
臨場感あふれる世界が広がった。
そして、作者からの隠されたメッセージを受け取ったように感じられてテンションが上がったのだ。
「想像する景色や見える景色が増えて楽しいのよ」、あの言葉がふわりと浮かび、
ストンと腑に落ちた瞬間でもあった。
もちろん、このような知識を事前に持っていたのなら、
「隠されたメッセージ」だと言えるほど大げさなことではないのかもしれないけれど、
少なくとも当時の私にとっては、作者とコミュニケーションを取れたような、
ちょっと嬉しい瞬間だったのだ。
和歌の世界で「花」と言えば「桜」を表すことが多いけれど、
ぼんやりと花を想像した世界と、満開の桜を想像した世界では印象が異なる様に、
同じものを読んでいても、見ていても、想像する世界や見えている世界は人それぞれ。
それならば、やっぱり私は、ひとつでも多く素敵な世界を見てみたいと思うし、
何より楽しめるだけ楽しんでみたいと思う。
言葉の世界に限らず、目の前に広がる変わりない日常も同じように。
秋の長雨がやってくると、過去の記憶とともに、そのようなことを思う柊希でございます。
お喋りが過ぎてしまったけれど、「長雨」と「秋の長雨」は別物。
機会がありましたらチラリと思い出していただけましたら幸いです。
ここへ足を運んで下さる皆さんに、今日も“ちょっぴりイイこと”がありますように☆彡
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