雨が上がった。
西の空に浮かぶ雲は、ほんのりオレンジ色に染まり始めていた。
ベランダの手すりに、ぶら下がるようして並んでいた雨粒には、
遠くの建物が映り込んでいるようにも見えた。
雨も上がったことだし、今のうちに。
軽めのアウターを羽織り、小さめのバッグにお財布を押し込んで家を出た。
家を出てすぐの横断歩道前で信号待ちをしているとき、
スマートフォンを家に置いてきていることに気が付いた。
少し落ち着かない。
そう感じる一方で感じる、ちょっとした解放感。
取りに戻ろうと思えばすぐに戻ることができる距離だったけれど、
その日は解放感を選ぶことにした。
ファントム・バイブレーション・シンドロームではないと自己診断して安心していたけれど、
いやいや、そんな私も十分、スマートフォンから解き放たれる
ある種のファントムの影響を受けているようだと思った。
雨雲が風で流され、久しぶりに広がる優しい夕焼け空を見ながら
アクリル絵の具と物差しを買うために画材店を目指した。
画材店へ到着しお目当てのものを探していたのだけれど、
物差しだけが見つからず、店番をしていた年配のご婦人にその場所を尋ねることにした。
すると、物差しでも定規でもどちらでもいいの?と尋ねられた。
何となく、どちらでもいいと伝えると今の人たちは、どっちも同じ感覚だものね、と返された。
出していただいた数種類のそれの中から気に入ったものを一つ手に取り、
お会計を済ませて画材店を後にした。
ご婦人の言葉が気になり、帰宅後に物差しと定規について軽く調べてみたのだけれど、
忘れていたことを思い出したような気分になった。
細い板切れのような定規と物差しは形も用途も似ているけれど、
本来は、その用途によって呼び方が異なる道具だ。
正確には、定規は線を引くための道具なので長さが分かるようにメモリがついている。
そして、鉛筆やカッターナイフなどを当てやすいように、
メモリの始まりと終わり部分に少しだけ余白が添えてある。
一方、物差しは読んで字のごとく、物の長さを測る道具なので
メモリの始まりと終わり部分の余白はなく、板切れの端からカウントが始まる。
想像してみれば分かるけれど、
壁からの長さを測ろうとした場合、
余白がある定規では余白分が邪魔をして正確な長さを測ることができないけれど、
余白がない物差しであれば簡単に正確な長さを測ることができるということのようだ。
もちろん、どちらの呼び方をしても困るようなことが起きるのは稀だけれど、
消えかけのワタクシの遠い記憶を引っ張り出すと、
子どもの頃に使っていたお道具箱の中には三角定規と竹製の物差しが入っていた。
もしかしたら、定規と物差しの違いを体や感覚で覚えられるようなラインナップになっていたのかもしれない。
そのような意図があってのラインナップであったかどうか確かめる術はないのだけれど、
もし、そうなのだとしたら、
教育現場に携わっている方々の狙いや思いは広くて深くて非常に興味深い。
その時の気分で「定規」、「物差し」と発していたけれど、
今度口に出す機会があったなら、さりげなく使い分けてみようかしら。
知っていたはずのことが、いつの間にか自分の中から消えてしまうこともある。
だから時々こうして、様々なものごとに触れなおすのも、悪くないように思う。
そのようなことを思いながらベランダから日が暮れた空を眺めた。
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