今年は酉年だったからだろうか。
「鳥」に関する話を耳にし、「鳥」の色々に触れる機会が多かったように思う。
先日、鳥好きだという知人が何本かの可愛い動画を送ってきた。
知人は特にオウム好きということもあり、送られてきた動画は全てオウムのものだったのだけれども、
その動画の中には飼い主と共に歌う様子や、同居している犬や猫たちと戯れる様子などが納められていた。
その様子を微笑ましく思うのと同時に、
彼らの感情の変化から表れる豊かな表情や賢さ、個々が持つ性格の違いを垣間見たような気がして、
鳥好きが鳥に魅了される理由が分かったような気分になった。
そして、過去に読んだのか聞いたのか、その辺りの記憶は定かではないのだけれど、
「忙しくしている鳥は幸せな鳥」、「鳥はくちばしが忙しいときが幸せ」というような意味の言葉があることを思い出した。
もともとは野生の鳥が生きるために、
日々、自分や家族の食料を調達している様子から来た言葉なのだろうけれど、
ありふれた日常を送ることができることも幸せのひとつ、ということかしらと、
動画の中の彼らの様子を眺めながら、それらの言葉の意味がストンと腑に落ちたような気がした。
そして、少しばかり捻くれた視点なのだけれど、
人に飼われている鳥たちは据え膳上げ膳の暮らしを送っている。
そうすると、食料の心配をしなくてよくなった彼らの幸せは、
どのような広がりを見せ、どのような幸せを新たに手にしたのだろうか、と。
人間的発想極まりないけれど、飼い主や同居している者たちとの種族を超えた心の繋がりであったり、絆や信頼、安心感、そのようなものだろうか。
野生の鳥が持つ凛々しくて険しい表情(かお)も魅力的だけれど、
人に飼われることで得たであろう感情から出る柔らかな彼らの表情もまた魅力的だ。
我が家のベランダにも小さな鳥たちが遊びに来るけれど、
凛々しい表情(かお)だけでなく、私が知らないだけの仲間内だけに見せる別の表情(かお)もあるのかもしれない。
種族を超えて深まる仲は多々あるけれど、
種族内にいざこざが絶えないのはヒトだけのような気もしたりして。
そのようなことを思いつつ、
大きな羽を広げ、メロディーに合わせて頭を大きく揺らしながらリズムをとるオウムたちを眺めた。
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