既に手帳からは取り外されている昨年のレフィルを手に取り、
真っ新なトランプを扱うかのようにしてレフィルにパラパラと風を送り込んだ。
一年という月日を経る中で染み込んだインクの重みなのだろう、
一枚、一枚からは程よい重みを感じたような気がした。
処分する前に読み返してみようかしら、という気持ちは、
毎年沸きあがりはするものの、
そうすることが億劫になってしまうくらい小さな字で埋め尽くされたそれを見ると、
よくもまぁ、こんなにも書くことがあったものだと思いながら読み返さずに処分している。
今回もそうするつもりで何度かパラパラと風を送り込んでいると、
パサッと乾いた音と共に御神籤が落ちてきた。
昨年のそれには、胸に響く言葉が書かれていたこともあり、
お守り代わりに持ち帰ったことを思い出した。
そう言えば、数年前だったと思うのだけれども、最近の御神籤は「吉」と付く御神籤、
大吉、中吉、小吉、吉、半吉、末吉、末小吉を多く出している神社が多い、
という内容のニュースを目にした記憶がある。
あくまでも、そのような傾向にあるというようなニュアンスで伝えられていたのだけれど、
しばらく大吉が続いていた私は、
本当はサンタクロースは居ないのだと知った時の子どものように、
ほんの少しだけ、しょぼくれたような記憶がある。
「吉」と付く御神籤を多く出している理由としては、景気が思わしくないことが挙げられていた。
景気が良ければお賽銭が増え、
景気が思わしくなければ人々の気持ちが沈みがちになり、お賽銭の集まりもいまひとつ。
神社の中には、この現状を様々な視点から少しでも良くしようと、
年明けは参拝者にできるだけ良い気分で過ごしてもらい、
気持ちよく、お賽銭をはずんでもらおうという狙いがあったとか、なかったとか。
という話だったと記憶している。
あれから数年経過したけれど、今年の御神籤事情はどうだったのだろうか。
世の中に出てくる色と景気には少なからず関連があると言われているけれど、
そうだとしたら、緩やかではあるけれど景気回復の兆しが見えてきてもいいのではないかしら、と思ったりもして。
だとしたら、御神籤の内訳にも影響が……?
うっかり野暮な思考に走ってしまったけれど、
御神籤の見どころは、大吉だ、小吉だ、凶だったといった格付けではなく、
書かれていることをどう受け止めて、どう活かしていくかであるように思う。
良い目が出たら十分に喜んだ後は気を引き引き締め直し、
悪い目が出たら、その時点で厄払い完了。気持ち新たにこちらも気を引き締め直して前へ。
どのような物事にも振り回されるのではなく、糧に。
とは言いつつ、地味に気になる御神籤事情。
いつか宮司さんに尋ねてみようと思うこの頃である。