肌を突き刺すような冷たい空気に陽射しが反射して見えたその日、私は駅のホームで首に巻いていたストールに顔の半分を埋めながら電車を待っていた。
左隣には紺色のスーツを着た男性が、私の後ろには太陽のように鮮やかなオレンジ色のダウンを着た女の子と母親の姿があった。
後ろからは英語で交わされる親子の会話が聞こえていた。
英語の電源を完全にオフにしていた私には、2人の会話の中身までは届かなかったけれど、その声色から楽し気な雰囲気が感じられ、ストールの中で思わず頬が緩んだ。
しばらくすると、隣の男性がハクションッ!と大きなくしゃみをした。
すると、後ろにいたオレンジ色のダウンを着た女の子が男性に、可愛らしい声で「ブレスユー」と言った。
海外の人たちは、くしゃみに対して少々敏感だ。
その証拠に、相手を知っているか否か関係なく、くしゃみが出れば「失礼しました(エクスキューズミー)」と言うし、くしゃみをした人に対して周りは「ブレスユー(bless you)」と言う。
正確には「ゴッド ブレスユー(God bless you)」であり「神のご加護を」という意味がある。
そして、「ブレスユー(bless you)」と言ってもらった人は必ず「ありがとう」とお礼を返す、というのが一連のお作法だ。
「ブレスユー(bless you)」を私たちの馴染みのある言葉に言い換えるならば、「お大事に」ということになる。
ただ、見知らぬ人が隣でくしゃみをしても私たちなら「お大事に」と声をかけることは少ないように思うけれど、諸外国ではお作法レベルで定着している。
これは、ヨーロッパでは古より「くしゃみをすると、くしゃみと一緒に魂が抜けて悪魔が入り込む」という言い伝えがあり、くしゃみをした人を悪魔から守るための呪文としてブレスユーが使われてきたという。
だから、守るための呪文をかけてもらった人はお礼を伝えるのだ。
お作法でもあり呪文でもあるのだけれど、ここは日本だ。
所変われば、お作法の具合いもそれぞれ。
女の子に向かってニッコリとほほ笑んだだけの男性に対し、女の子は少しだけ腹を立てた様子で、「ママ、この人、ありがとう言わないよ」と言い、「気にしなくていいわ」と女の子を宥める母親の会話を私はそっと背中で受け止めた。
そう言えば、日本ではくしゃみの音をハクションといった感じの言葉で表現するけれど、英語圏ではこれを「アチュー」と言う。
初めて知った時には、何だか聞いたこちらが妙な恥ずかしさを感じてしまったのだけれど、彼らのくしゃみを意識して聞いてみると、確かにそう聞こえるのだ。
「彼らのくしゃみって何だか変」私は、正直そう思ってしまったのだけれども、外国暮らしが長い方に聞くところによると母国語に含まれている母音の違いが、くしゃみにも影響しているのだとか。
なるほど、だ。
電車がホームに到着し、私の隣に並んでいた男性は後ろの女の子にもう一度、優しい微笑みを投げかけて車内へと入っていた。
もちろん、女の子のご機嫌の真意を知ることのないまま。
現実はひとつだけれども、真実は人の数だけ。そのような出来事だった。