鉄の扉で厳重に閉じられた小学校の校門前を通り過ぎた。
学校をぐるりと取り囲んでいるブロック塀は、ある高さから色が変わっていた。
侵入者を警戒してのことなのか、
もとから在ったブロック塀の上に新たにブロックを後乗せし、高さを出したことが分かるような、
経過した時間の違いを表しているような色をしていた。
子どもの安全を第一に考えてのことだとは理解できつつも、
街中の空気と馴染みきらぬその様に感じた違和感と、
様々な立場の方々の思いを含んだブロック塀の色が複雑に絡み合った。
このようなことを思うのは、私の一方的な感情と過ごしてきた環境によるものであって、
通う子どもたちにとっては、それが日常で、
今も昔も、子どもたちは目の前の環境を思いっきり楽しんでいるだけなのだろうけれど。
目の前にある状況を楽しんでいる子どもたちを見習わなくては。
そう思っていると、ブロック塀の奥から「春のー♪うららのー♪隅田川―♪」という懐かしいメロディーと可愛らしい歌が耳に届いた。
あまりにも久しぶりすぎたものだから、私の意識は、誰だったかしら……タイトルは……と、
脳内を右往左往しはじめた。
それが滝廉太郎の「花」だと思い出したのは、小学校を随分と過ぎた頃だった。
春うらら。
春の季語なのだけれども、「うらら」の原型は「うらうら」で、
ゆったりとしている様子を意味する「ゆらゆら」という言葉が変化したものだ。
だから、はじめは「春うらうら」と言っていたようなのだけれども、
時間を経るにつれ「春うらら」と短縮されるようになり、
この形が現代にまで受け継がれ、使われている。
そして、「うらら」、「うらうら」のもとは平安時代に使われていた「こころ」を意味する「うら」という言葉が派生したものだと言われている。
もし、万葉集に触れるさい「うら」という言葉が出てきた際には、
「こころ」に置き換えて読んでみると意外とすーっと簡単に意味がわかるのだ。
「春うらら」と同じような意味をもつ表現には「小春日和」というものある。
つい、これからの時季に使ってしまいそうになる言葉のひとつなのだけれど、
以前、こちらでもお話させていただいたように、「小春」は秋の気候を表す言葉なので、
柔らかい印象を受ける素敵な言葉だけれども、これからの時季に使うことはできない。
「小春日和」を使うのは、もう少し先のお楽しみにとっておき、
春の晴れやかな空や心地よさ、どこか柔らかい、ゆったりとした空気、
穏やかな春の陽射しなどを表現する際には「春うらら」を使ってみてはいかがだろうか。
歩きながら、春うららの他にも、春麗など春を彩る言葉が思い浮かんだのだけれども、
何だか日本酒の銘柄にありそうだと思ってしまう私の脳は、やはり花より団子ということだろうか。
最後までお付き合いいただきました皆さん、いつもありがとうございます。
今日から3月です。皆さんに優しい春風がふわりと吹きますように☆彡
関連記事: