春分の日、彼岸の中日も過ぎ、昼間が少しずつ長くなり始め、寒さも和らぎ始めるこの頃。
そろそろ桜の開花情報も耳に届くのかしら、と思いながら
冬の雨とは異なる、温かみを帯びた優しい春の雨をリビングから眺めた。
このような時季に降る雨のことを「養花雨(ようかう)」と呼ぶ。
その文字列からも想像できるように、この温かみを帯びた優しい雨が、
植物たちに栄養を与え、柔らかくて瑞々しい新芽を芽吹かせる。
準備が整った順に春の花々を開花させ、私たちは、植物たちの息吹を五感で感じる。
「養花雨(ようかう)」の他にも、この時季に降る雨を、催花前(さいかう)と呼ぶこともあるし、
植物たちに栄養を与えることから甘露が転じた甘雨(かんう)と呼ぶこともある。
春の雨を様々な視点から見た呼び名が数多くあるのだけれど、
どの呼び名も、人が色鮮やかな花が花開くその時を待ち侘びてきたことを垣間見ることができる。
こうした雨の別名は、春だけに限らず、季節を通して数多くあるけれど、
その名には、その時々の情景が切り取られ、名の中に忍ばせてある。
それを、そのままにしておくことを勿体ないと感じたのか、
その言葉に忍ばせてある情景を自分の感性で触れてみたいと感じたのか、
真意は私には分からないけれど、
雨の別名は、昔も今も創作物などの歌詞や題材、題名などに使われている。
きっと、大勢の方が無意識に感じ取っていることだと思うのだけれども、
そのような創作物、作品に触れていると、ふと、
雨そのものに命が宿っているかのように思えることがある。
もちろん、創り手の感性によるところも大きいのだろうけれど、
それだけ雨は、人に魅力を感じさせるものだと言っても良いのかもしれない。
私がドキリとする雨を表す言葉は「遣らずの雨(やらずのあめ)」だ。
どのような雨なのかと言うと、帰ろうとする人をひきとめるかのように強く降り始める雨のこと。
作者が誰だったのか、それが小説だったのか映画だったのか、漫画だったのか、何かの楽曲の歌詞だったのか、
記憶には残っていないのだけれども遣らずの雨を使った素敵なシーンに出会ったことがある。
その場を立ち去ろうと立ち上がった女性の気持ちを知ってか知らでか、
立ち去ることをひきとめるかのように強い雨が降り始めたのだ。
女性の向かい側に座っていた男性は、女性と窓の外を交互に眺めたあと
「遣らずの雨ですね。」と嬉しそうな顔で女性に告げる。そのようなシーンだったように思う。
もう少し一緒にいたいと思う2人に、雨が粋な贈り物を届けたようにも見えるし、
遣らずの雨という言葉に相手に対する思いを込めたところで、
その気持ちが伝わる保証など無いのだけれど、
この意味合いを相手が知っていたとしたら。
この思いが相手に伝わったとしたら。
と思いながら発した男性を素敵じゃないか、と思った。
そして、直球で飛んでくる愛の言葉に胸の奥を揺さぶられることもあるけれど、
思いを言葉のベールで包んで届け合う会話の、ある意味じれったい感覚を、
大人の遊び心と共に共有することができる関係もまた、
日本人ならではの趣きがあり、
恋という名の時間が、もっと愛おしく感じられて良いじゃないか、とも。
ネット回線を使って瞬時に気持ちを伝えることができる現代目線でみれば、
“いまどき”ではないのかもしれないけれど。
目の前のものごとを考えた上で、合理的に選び進むことも悪いことではないけれど、
時には感じることや感じていることを優先して、
暮らしの中で目の前に現れるものごとを純粋に楽しむ瞬間が在っても良いと思うのですが、いかがでしょうか。
優しい雨を眺めながら頭の中で、そのようなことを徒然と巡らせたある日。
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