「ちゃんと前を向いて、気を付けて歩いて」
背後から聞こえた女性の声に背中と心がビクッとした。
その言葉は私に発せられたものではなかったけれど、
子どもの頃、似通った言葉を母親から言われていたことを思い出した。
小学校へ送り出すときの心配する気持ちが母に、そう言わせていたのだろうけれど、
十分に気を付けているつもりで、ちゃんと前も向いているつもりだった私は、
どこをどうすれば良いのだろうかと、母の声を聞きながら、
ほんの少しだけ普段よりも背筋を伸ばしてみたり、指先をピンと伸ばしてみたり、
力強く地面を踏みしめてみたりと、私なりに色々と試していたことを思い出した。
その後、どのようなタイミングで、何がきっかけとなってそう言われなくなり、
私も、試していた色々を止めたのかは記憶にない。
ただ、そのときの景色を思い出した。
多分、小学校に入学して間もない、今頃の時季だったと思う。
草木や花の香りが混じった、少し甘い空気のにおいや、
一緒に登校してくれていた近所に住む上級生の男の子。
彼のランドセルにぶら下がっていたカラフルな色をした飛行機のキーホルダー。
キーホルダーは太陽の光に照らされてキラキラときれいだったけれど、
時々、反射した光が私の顔を照らすものだから、
眩しくて、歩きながら目を閉じてしまうことがあった。
今思えば、目を閉じたまま歩く私はフラついていたのかもしれない。
車が来たら危ないよと言って、私の背後から私のランドセルに手を添えてくれていた上級生の子も一緒だった。
名前も顔も性別すらも覚えていないけれど、ちょっと厳しいタイプの子だったように思う。
そのような、今まで一度も思い出さなかった記憶が、ぶわっと蘇った。
まるで覗き穴から覗いたみたいに、写真の一部だけを拡大したみたいに、
所々だけ鮮明に思い出される記憶に、
これは本当に、私が経験した記憶なのだろうかと不思議な気分になったけれど、
その、覗き穴ほどの世界を一生懸命に感じながら、集めながら、
ひたすら前へ前へ進んでいた幼き頃の記憶の欠片なのだろうと思った。
そして、どのようなタイミングで、何がきっかけとなって、「ちゃんと前を向いて、気を付けて歩いて」と言われなくなったのかは記憶にないけれど、
言ったり言われたりといったことが互いに必要なくなった瞬間は、
母も子も、それぞれ成長した瞬間でもあったのだろう。
すぐに思い出せなくても、思い出す機会がなくても、
何気ない日常の景色は、大切な人の記憶のどこかに、ちゃんと、しまわれているいるように思う。
春は優しく深く、人を刺激するようだ。
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