遠出をし、自然いっぱいの山道をドライブしていると至る所に咲く山藤(野藤とも)が目に入った。
人が植えたものなのだろうけれど、随分と長い年月、
その場所で咲き続けていることが分かるほど、どの山藤も立派な咲きっぷりだった。
観光地や家庭で育てられている藤の花とは異なる、
山藤の中に垣間見える野性的な美しさを楽しんでいると、
その多くが松の木に絡まりながら咲いていることに気が付いた。
どのような経緯でいつ植えられたものなのか、最初に植えた人がいつの時代の方なのかは存じ上げないけれど、
男性らしさを表す松の木と女性らしさを表す藤(ふじ)を並べて植えてあるところを見ると、
単純に植えただけではない、誰かの意図や想いに触れられたような気がした。
その日は、前々から土に触れたいと思っていた願いを叶えるべく、
陶芸体験ができるという場所へ向かっていたのだけれど、
心躍らせながら向かう間中、目にしていた山藤は、この日のハッピーサプライズだったように思う。
到着した陶芸工房に入ると、かすかに、しっとりとした土の匂いがした。
年季の入った木製のテーブルはずっしりと重く、キズだらけではあったけれど、
不思議と手に馴染む表面をしていた。
陶芸には、“電動ろくろ”を使う手法と、“手びねり”と呼ばれる電動のものを使わない手法がある。
電動ろくろは、表面を滑らかに仕上げることができるけれど、
集中力が欠けると、一瞬にして作りかけの作品がグニャグニャッと潰れてしまうため、
ブレない集中力が必要となる、あのタイプだ。
一方の手びねりと呼ばれるものは、テーブルの上に小さな回転台を置き、
その上で粘土工作をするようなイメージだ。
回転台は、ケーキにクリームを塗るときなどに使うケーキ台や、
中華料理店にあるターンテーブルのミニチュア版と言えば、イメージしやすいだろうか。
電動ではないため、必要に応じてテーブルを自分で回転させるシステムなのだけれど、
作りかけの作品が一瞬にしてダメになる心配が無く、何度でも、どこからでも作り直すことも可能だ。
その日の私は、手びねりの手法で土に触れることにした。
手びねりは、作るものの形に、あまり制限がないため、自由な発想で作ることができる上に、
慌てて手を動かす必要がないため、初心者でも小さな子どもでも楽しめる点が魅力。
近くの山で鳴く鶯の声が聞こえる自然光のみに照らされた涼やかな工房内で、
ひんやりとした黒っぽい土をこねながら想像を膨らませているうちに、
頭の中から様々な雑念が取り払われていく。
目の前にある土の塊のみに意識が集中していく過程は、とても心地よい時間だ。
少し離れたテーブルでは、小さな子ども連れのご家族が手びねりを楽しんでいたのだけれど、
子どもたちは普段、粘土に触れ慣れているからだろうか。
とても手慣れた様子で土をこね、作品を作っているように見えた。
考えながら手を動かす大人とは明らかに異なる、
自由な雰囲気を放つ子どもたちを視界の端で捉えつつ、
大人は、多くのことを知っているけれど、
自分の意志で手を伸ばさないと、忘れていく感覚があるように思った。
その多くのことは、何かと引き換えにして得てきたもので、
“大人になる”とは、そういうことだと言う人もいるけれど、
私は、ただ忘れてしまっているだけのように思う。
だから時々、自然の中に身を置いてみたり、創造することを楽しんでみる。
すると、錆付きかけていた五感が、
忘れてしまっていた様々な感覚と共に、みるみるうちに息を吹き返すのだ。
感じられるということは、日々を重ねていく上でのスパイスであるようにも思う。
時々、今の自分が何を感じているのか、観察してみるのも面白いのではないでしょうか。
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