美味しい魚介類が食べたくなり、観光地化して賑わっている市場へ行った。
建物内に足を踏み入れると、ヒンヤリとした冷たい空気と威勢の良い声に出迎えられた。
新鮮な魚介類や、その土地ならではの山の食材、加工食品などを覗き込み、
買って帰るものを吟味しながら、建物の奥にどっしりと構えられている料理店へと向かう。
新鮮な魚介類を使って作られる凝った料理も良いけれど、
獲れたての魚介類で作られる家庭料理のメニューには、それとは異なる味わいがあり、
不思議と全ての栄養が、五臓六腑の隅々にまで染み入るように感じられる。
普段であれば、この量は食べきれないと思ってしまうような量でも、ぺろりと平らげてしまうのは、体も普段とは違う何かを察知しているのかもしれない。
その日も、とびきり新鮮な魚介類を堪能し、腹ごなしも兼ねて再び市場を見て回った。
片側の通路を端まで歩ききったときにふと、お店によって「ウニ」の表記が異なっていることに気が付いた。
「ウニ」「雲丹」「海栗」……、この辺りまでは何とかすぐに脳内にウニの姿が浮かぶのだけれど、
もうひとつ見つけた「海胆」という表記は、その姿が浮かぶまでに少々時間がかかってしまった。
一般的に広く使用されている「雲丹」は、「丹」の文字に「赤い色」という意味がある。
その赤い色は、信号機の赤や深紅のバラのような色ではなく、少しオレンジがかった朱色の赤だ。
鳥居に使われるような朱色と言ったらイメージしやすいだろうか。
ウニの中身が、そのような朱色の雲に見えたことから「雲丹」という漢字があてられている。
そして、本来はアルコールや塩を使って加工されているウニに対して「雲丹」の文字が使われ、
トゲや食べられない部分を丁寧に取り除いた生ウニは、肝(胆)を連想させることから「海(の)胆」と記していたようなのだけれど、
朱色の雲という例えに心地良さを感じるのか、加工を施していない生ウニにも雲丹の文字が使われることが増えているようだ。
ちなみに、トゲが付いたままの、獲れたてウニの場合は、見たままの「海(の)栗」でウニである。
このくらいであれば、連想ゲームのようにしてウニに辿り着くことはできるけれど、
海の肝と聞いて、人が想像するものがウニとは限らない点が、この表記がいまひとつ、メジャーになり切れない理由だろうか、と勝手な思を巡らせているところに、
威勢の良い魚屋の店主によって強引に手渡された試食のウニを口に運んだ。
「お腹いっぱいなのに、美味しい」
思わず口からこぼれた感想に、もっと気の利いた感想は無かったのだろうかと思ったけれど
店主が放った「な、自慢のウニだから」と言う返しに自然と口元が緩んでいだ。
ウニを召し上がる機会がありましたら、ウニがまとう雲丹、海栗、海胆の文字をチラリと思い出していただけましたら幸いです。
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