幸せのレシピ集

cawaiiとみんなでつくる幸せのレシピ集。皆様の毎日に幸せや歓びや感動が溢れますように。

理由が不要なこともある。

f:id:hiiragi1111:20181012132015j:plain

苦手な夏が過ぎ去り、過ごしやすくなったこともあり、昼間の外出も苦ではなくなったこの頃。

のんびりと美術館巡りでもと思い、各館の展示プログラムをネットで確認していた。

美術館巡りが好きだと言うと、美術品や作家、その他に詳しいのだろうと早合点されることがあるのだけれど、

正直なところ、私はその辺りに非常に疎い。

そして、疎いからと言って、足を運ぶ美術品や作家に対し、事前に知識を入れて観にいくということもしない。

何となく興味をもったから、試しに実物を観てみよう。

何となく好きだと思っていた作品だから、実物を観ても気持ちが変わらないのか、もっと好きになるのか、試しに実物を観に行ってみよう。

粗方、このような軽い気持ちで足を運んでいる。

そして、実際に足を運んだときも、作品の近くに設置してある解説文は、ほぼ、スルーである。

もちろん、背景を知った上でその作品を眺めれば、違う景色が観え、様々なことを感じることができるけれど、

それは、作品に深く興味を持ったり、好きだと感じたりした後に、もっと知りたいという衝動が起きたときだけだ。

わりと自他ともに認める探求好きだったりもするものだから、友人たちには意外な一面として映ることもあるようだけれど、

「何となく好き」

「何となく気に入った」

「この中では、これが一番好きだった」

このような気持ちや感想が生まれるだけで、十分素敵なことではないかと思っている。

全ての感情に、どうしてそう感じたのかという説明が必要だというわけではないし、

様々な理由ありきの「好き」が全てではないとも思う。

もっともっとシンプルに、自分の日常のひとコマに、今日のひとコマに、「好き」と感じる「何か」が登場した。

それだけでも十分に素敵なことではないだろうかと思うのだ。

例えそれが、明日になったらすっかり忘れてしまうようなことだとしても。

もちろん、そこからもっと知りたいという欲求が生まれれば、

その感情に素直に従うだけなのだけれども。

先日友人が、「美術館は嫌いじゃないけれど、詳しくないから行ってもあまりよく分からない。」と言っていたことを思い出しながら、そのようなことを思った。

分からなくても良いし、「嫌いじゃない」も美術館へ行く立派な理由のひとつだと思うのだ。

他人に対しての正解を探すことに意識を向けすぎてしまうと、視界が狭くなることがある。

美術館に限らず、世の中には、「理由が無くてもよい」ということも意外と多いように思う。

正解を求めすぎず、感じることができたことをシンプルに喜ぶ秋、楽しむ秋。

そのような秋の過ごし方、いかがでしょうか。

画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/