指先が、パソコンのキーボードを温め始めたため、気分転換に外出することにした。
小さなバッグに必要最小限のものを入れていたのだけれど、敢えてスマートフォンは持っていかないと決め、取り出した。
ただ外の空気を吸うためだけの外出、そう思って玄関ドアを押し開けただけだというのに、
気持ちが随分と軽やかに感じられて、束の間の解放感を全身に浴びた。
行き先を決めずに外出することが苦手だという方もいらっしゃるけれど、
私はこの感覚がとても好きで、私にとっては、贅沢な時間のひとつである。
時々降る雨が秋を深めているのか、また少し、街中が秋らしくなっていた。
そして、この時季は、春愁秋思(しゅんしゅうしゅうし)という言葉を思い出す。
春愁秋思(しゅんしゅうしゅうし)の春愁は、春に感じる憂鬱や物悲しさを、秋思は秋に感じる淋しさを表しており、
心地よい気候のときに、何となく気が塞いでしまったり、淋しい気持ちになること表す言葉である。
文字通り、春と秋の心の揺らぎが挙げられているのだけれど、
私がこの言葉を思い出すのは、いつもこの時季、秋が深まる頃である。
秋は、人の心の奥に眠っている何かを、五感を通してそっと刺激してくる。
そして、自分は、人だけではなく、様々なモノゴトと影響し合っているのだと、何となく実感する季節でもある。
そう言えば、特段、秋の言葉という訳ではないけれど、
この時季は、故郷や過去の様々を懐かしく感じる様子を表す、ノスタルジックという言葉を目にする機会も増えるように思う。
風情があり、洒落た風な言葉の響きが使用される機会が多い理由ではないかと思っているのだけれど、
もとの「ノスタルジア」という言葉は、スイスの医学生によって作られた造語であり、
帰郷と心の痛みを表す2つの言葉が組み合わされているという。
どうして、帰郷と心の痛みなのか。
「ふるさとへ帰りたいけれど、もう、あの地へは帰ることはできないかもしれない」という、患者さんの心情を指すもので、
もとは、現在のような使われ方ではなく、心の病の名としても使われていたそうだ。
初めてこの語源を、ある方に教えていただいたとき、
医学生らしい視点から生まれた言葉だという印象を抱いたこともあり、今でも何となく記憶に残っている。
そのような事を脳内に巡らせながらも、次の瞬間には「牛乳が切れていた様な……」と、現実に引き戻されるいつもの散歩道だ。
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