ご年配の方とお話をしていると、実生活では触れる機会が少ない言葉と出会うことがある。
そのような時、活字として触れていた言葉が、本の中から飛び出してきたかのような現実味を帯びている気がしてドキリとする。
きっと、言葉を発した方が日頃から使っていたり、使ってきたという「慣れ」のようなものが言葉から滲みでているのだろう。
先日は、偶然隣の席に座っていらした、2人組のご年配女性の会話が耳に届いた。
今朝、遠方に住んでいる息子さんにメールを送ったけれど、お昼になっても返事が来ず、なしの礫だと仰っていた。
それを聞いていた、もうお一方が、うちの息子もそうだと何度も大きく頷いていらっしゃったのが印象的だった。
その時の時刻は14時近くだっただろうか。
お母様方、なしの礫だと言い放つには少々早いのではないでしょうか……と思うのと同時に、
勝手に、自分の母親に言われているような気がしてしまい、ばつの悪い思いがした。
しばらく続いていた話題から意識を逸らそうとしていると、ふと、「なしの礫」という言葉を久しぶりに聞いたなと思った。
私の脳内で、この言葉は「なしの礫」と記されているのだけれど、「なし」は「無し」なのだろうかと思い手短に検索をかけてみると「梨の礫」とあった。
そう言われてみれば、そうであるような気もしたのだけれど、フルーツである「梨」を使っているからには何か面白いエピソードでも潜んでいるのかと思いきや、
「なし」の部分は「梨」だろうが「柿」だろうが「林檎」だろうが「桃」だろうが、何でもよかったという記述を目にし、肩透かしを食ったような気がした。
いくつかの説が存在しているようではあるのだけれど、有力説として多く挙げられているのは、
返事がないことを指す「無」と、フルーツの「梨」を掛けて「梨の礫」に落ち着いたという、語呂合わせ説である。
それならばシンプルに無しの礫の方が意味としても浸透しやすいように感じるのだけれど、
無いものは投げられないじゃないか、という当時の方々の言い分から「梨の礫」なのだそう。
日本人は、世界中の方々から勤勉で真面目であると思われているのだけれど、真面目一辺倒ではないのである。
遊び心もあれば、手抜きもするし、時にはずる賢いこともしてきていた過去もあるけれど、それを寛大な心で受け止め合ってきたのだ。
本当に良い意味での「いい加減」を、ナチュラルに遣って退ける性質を秘めているように思う。
もしかしたら、現代の私たちの方が、自分に対しても関わり合う相手に対しても、肩にガッチガチに力を入れた状態で過ごしているのかもしれない。
日頃から、適度に肩の力を抜くことができるような、しなやかさを持っていたいものである。
それにしても、先人たちの、いい加減なのか拘っているのか判断し兼ねる、何とも言えぬ塩梅の感性、ワタクシ、わりと好みでございます。
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