調べものついでに随分と久しぶりに『土佐日記』を手にとった。
作者である紀貫之(きのつらゆき)の名前を目にするのも久しぶりである。
学生の頃は、読まされている、読んでおいた方がいいと言われているものという感覚が強かったのだけれど、あるとき、ふと。
これは、作者が仕事を終えた地から自宅へ帰るまでの単なる旅日記ではないかと思った途端、肩の力が抜け、気楽に読めるようになった。
この手の作品は、様々な楽しみ方や感じ方があり、その世界に足を踏み込めたなら面白い世界に触れることができるけれど、踏み込むキッカケを掴むことが一番の難所のように思う。
子どもの頃に、いい意味で、もっと軽く扱ってもいいものだと言ってもらえていたら、子どもの感性でもっと自由に感じられた世界や見える世界があったのかもしれない。
そのようなことを思いながら、土佐日記をパラパラと捲りはするものの、なかなか読み始められない私は、未だに「読まされている、読んでおいた方がいいと言われているもの」という感覚が薄っすらと残っているのだろうと思った。
その、いつぞやかの感覚が混じった肩の力を抜くため、キッチンへと移動した。
手にしていた古びた土佐日記をテーブルの上に置き、冷蔵庫を開ける。
いくつかの食材を取り出し、混ぜて乗せて冷やすだけのお手軽ティラミスを作ることにした。
室内は冷房をきかせているけれど、この暑さである。
オーブンを熱することは早々に諦め、スポンジ生地のかわりにはカステラを使い、お手軽を極めるべく、エスプレッソはインスタントコーヒーを使ったもので代用することに。
そう言えば、瓶入りのインスタントコーヒーを買う機会はあまりないのだけれど、瓶の口を覆っているフィルムはきれいに剥がさない方がいいと教えてくれたのは誰だっただろうか。
ついつい、瓶の口に付着したフィルムまで、きれいに剥がしてしまいたくなるのだけれど、瓶の口部分のフィルムを残して、蓋と瓶の口の隙間を少なくすると、コーヒーの酸化や湿気によるダメージを抑えられ、コーヒーの鮮度を保つことができるのだとか。
このミリ単位の違いが味にどこまで影響するのかは分からないけれど、使い切るまでに時間がかかるものや調味料などにも応用できる視点だと思ったことがあった。
あっという間に、混ぜて乗せて冷やすところまでの作業も終わり、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」で始まるそれを今一度手に取った。
この時代の日記は漢文で書くものだったけれど、紀貫之(きのつらゆき)は、これを女性のふりをして書いている。
しかも、冒頭で「男性が書くとかいう日記というものを、女性である私も書いてみようと思って書くのです。」と書き記し「女性の体ですよ」と言っているのである。
この一文を目にする度に、使うことができる文字にも決まりがあった時代の中で、女性のふりをして書こうと思ったきっかけは何だったのだろうか、と素朴な疑問を抱いてしまう。
つい、作者が男性であることを忘れてしまうのだけれど、
土佐日記は、作者が仕事を終えた地から自宅へ帰るまでの旅日記で、
しかもそれを、男性が女性のふりをして書いているのだと思いながら読みすすめると、また少し違った世界が見えてくる作品である。
と私が勝手に言い切ってしまうのは如何なものかとも思うけれど、そう思って読み返してみるのも、そう悪くはないように思う。
窓の向こう側から強引に室内へと侵入してきそうな夏の熱は未だ力強く、この暑さは、やはり異常である。
リビングのソファーで、程よく冷えたティラミスの出来上がりを待つ間、紀貫之(きのつらゆき)のなりきりっぷりを観察した、夏の午後である。
土佐日記や紀貫之(きのつらゆき)の名に触れる機会がありました際には、今回のお話の何かしらをちらりと思い出していただけましたら幸いです。
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