外出先の道沿いに、きれいな色をした紙切れのようなものが落ちていた。
間隔を開けて、また一枚、更にまた一枚と続いた。
程よい感覚で視界の端に入ってくるそれを横目で捉えながら、まるでヘンゼルとグレーテルの話に出てくる、兄ヘンゼルが道標に落とした、光る石やパンくずの様だと思った。
それなりの数が落ちていたこともあり、横目ではなく顔を向けてそれを確認すると、開かれていない折り鶴だということに気が付いた。
まさか誰かが道標に落としているのでは?と脳内劇場の幕を上げたくなる気持ちが湧いたけれど、千羽鶴を運ぶ誰かが落としていったものだろうという現実的な推測でそれを抑え込んで、目線の少し先に落ちている折り鶴を目で追った。
そもそも、千羽鶴は何がきっけとなり生まれたものなのか。
過去に幾度か、同級生へのお見舞いのためのものと、何かを応援する気持ちを込めたものとして、千羽鶴の中の数羽を折るという経験をしたことがあるけれど、当時は千羽鶴のことをよく知らないまま折ったように思う。
大勢で折ったとは言え、千羽もの鶴を折るのも、まとめるのも大変な作業である。
当時の折り鶴は千羽もあったのだろうかと、遠い記憶を手繰り寄せながら今更ながら、千羽鶴のことを調べてみることにした。
千羽鶴は、鶴を折りながら願掛けをし、出来上がった鶴を糸で繋いで房状にまとめたもののことだ。
願掛けの中身は病の回復や、合格祈願、スポーツやその他の大会などに出場する方への応援など、様々である。
いくら調べてみても千羽鶴の起源は分からなかったけれど、古より鶴は、日本人にとって縁起の良い鳥で、長寿や健康、幸運のシンボルとして大切に扱われてきた鳥である。
このような背景から、できるだけたくさんの鶴を折って、全ての鶴に願掛けをすれば物事が好転するだろうという強い思いから千羽鶴がある。というような考えを多くの方が抱いているようだった。
あの日私が外出先で目にした沢山のカラフルな鶴は、何か願いが込められた鶴だったと思うのだけれど、折った人の願いや思いは無事に届けられるべき所へ届けられただろうか。
たくさんの鶴を落としていることにも気付かないほどの数の鶴を運んでいたのだとしたら、そこに込められた願いや思いも、さぞ強いものだったのではないだろうかと思ったりもする。
そのような思いを勝手に巡らせてしまったけれど、立派な羽を持っている鶴のことだから、落としてしまった鶴に込められた願いや思いもきっと、届けられるべき所へ届けられたに違いない。
落とし物の鶴を思い返してそのようなことを思った日。
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