見上げた空にはウロコ雲が浮かんでいた。
いや、イワシ雲だろうか。
私はこの二つの見分け方が今一つ分からず、その時々の気分で呼んでいるけれど、このような雲が青空に広がり始めると、夏が完全に去ったことを感じ、やってきた秋に心踊らされるのである。
そのようなことを思いながら信号待ちをしていると、横断歩道の向こう側の花壇で揺れる曼殊沙華が目に留まった。
秋らしく、こっくりとした深みを感じる赤に染められた繊細な花は、艶やかで妖艶だ。
どの植物にも言えることなのだけれど、花開く時期、芽吹く時期に合った色を纏っている。
改めて意識を向けてみると、とても神秘的なことのように思う。
信号が青に変わって歩き出すと、今度は、ふわりと甘い香りが鼻先を擽った。
両脇を歩いていた方々も首を左右に動かしたところを見るに、この香りにハッとしたのだろう。
私は、それが香った瞬間に「もう、金木犀!?」と思ったのだけれど、既に9月下旬の秋真っ只中。
自然の体内時計の正確さにはいつも脱帽である。
しばらく歩いていると、艶を持った濃い緑色の葉に小さなオレンジ色の小花が点在する木が目に入った。
先程の香りの主なのかまでは分からないけれど、私にとって今年初めての金木犀の花だ。
まだ咲き始めたばかりの甘い香りに誘われたのか、小さな鳥がオレンジ色を啄んでは木から離れ、を繰り返して遊んでいた。
鳥たちも、厳しい世界をただ生きているだけでなく、こうして遊び心を持っているのだなと思いながら通り過ぎた。
あっという間に、どこもかしこも秋色で、それならばそろそろ松茸でもという気分になった。
松茸と言えば、その香りが特徴的だけれど、先人たちもこの松茸の香りを好んでいたようで、万葉集に収められている歌にも登場する。
「高松の この峰も狭に 笠立てて 満ち盛りたる 秋の香のよさ」という歌なのだけれど、簡単に柊希解釈で訳すならば、
「奈良の高円山(たかまどやま)全域に、ビッシリと松茸が生えて、山を覆ってしまっているの。この松茸ビッシリの眺めも良いのだけれど、何といってもこの香りがやっぱり最高よね。早く味わいたいなー」といったところだろうか。
単純に「松茸っていい香りよね」というような内容の歌であれば、記憶に残ることもなかったように思うのだけれど、この和歌に転写されていた当時の景色は、山を覆うほどの松茸、足の踏み場もないほどに生えている松茸の景色だったのだ。
それゆえに、本当にそのような景色があったのだろうか。
ひょっとして、歌を詠んだ者の希望を盛り込んだ架空の景色だったというオチではないのだろうか。
もし仮に、そのような景色が実在したならば、それほど多くの松茸が生えていたならば、漂ってくる香りも金木犀以上だったかもしれない。
といった思いが次々に浮かんだ和歌として、私の記憶に刻まれており、松茸を見ると、真か偽りか分からぬままの景色が転写されたこの和歌を思い出す。
松茸に触れる機会がありました際には、ちらりと思い出していただけましたら幸いです。
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