川沿いを歩きながら何気なく足元近くへ視線を落とした。
すると、地面からひょっこりと頭を出した「つくし」に遭遇した。
「つくし」を間近で見るなんていつぶりだろう。
何だか懐かしい気持ちが湧いてきた私は、
少し先の入り口から川沿いの柵の内側へと入ると、
先程の「つくし」の元へと向かった。
しゃがみ込んで「つくし」を眺めてみると、
春の空気をふるふると震わせる「つくし」から漲る命を感じた。
昨夜、少し雨が降ったからだろう。
その「つくし」は澄んだ滴を頭に乗せて、
キラキラとした優しい光に縁どられていた。
何だか可愛いな、春だな、そのような事を思いながら
おもむろにポケットからスマートフォンを取り出して
パシャッと「つくし」との出会いを私の日常アルバムに収納した。
以前ご紹介させていただいた
アマチュア写真家の浅井美紀さんのような写真は撮れなかったけれど、
少しだけこの「つくし」とコミュニケーションをとれたような気がした。
「つくし」側からすれば、
いきなりやってきた不審人物に断りもなく写真を撮られて
いい迷惑だったのかもしれないのだけれど。
そう言えば、子どもの頃は春になると祖母が「つくし」のお浸しや卵とじを作って持ってきてくれていた。
残念ながら、味はあまり覚えておらず、
美味しかったのか、美味しくなかったのかさえも記憶にはない。
だけれども、子どもながらに「春なんだな」とか「これを食べる季節がきたんだな」
といった類のことを思いながら頬張っていたことは覚えている。
また、小学校低学年の頃、
半ば無理やり参加させられていた子ども会のような会で
「つくし」採りをしたような記憶もある。
「つくし」が生えているような所は雑草も多く、
すぐに皮膚が草に負けて荒れる私にとってはジワジワと忍び寄る痒みとの闘いゆえ、
なかなか「つくし採り」に集中できず難儀なイベントでもあった。
出来ることなら参加したくなかったけれど、
あの時の出来事もこうして想い出のような形で私の中に残っていたのだと、
この文章を書きながら、何が想い出になるのかなんて分からないものだな、
と思ったりもしている。
ある程度の年齢になった頃から、
食卓に「つくし」が上ることもなくなり、
スーパーなどで「つくし」を見かけることもなくなった。
私にとっては「つくし」の味を忘れてしまうくらいの年月が経ち、
この日「つくし」と触れ合うのは久しぶりのことだった。
淡い春の記憶が頭の片隅で小さく揺れた。
久しぶりに「つくし」を食べてみたいかも。
そんな私の心の声が聴こえたら、目の前の「つくし」はドキリとするのだろうか。
目の前の「つくし」にちょんっと触れて私はその場を後にした。
あなたの淡い春の記憶はどのような記憶ですか?
春の優しい日差しの中で
記憶のお散歩に出かけてみてはいかがでしょうか。
関連記事: