私の日課のひとつに「瞑想」がある。
瞑想と言っても、
楽な姿勢で普段よりも自分の呼吸に意識を向けるだけなのだけれど
私には欠かすことができない時間のひとつだ。
それなりに年齢を重ねてきたため、
頭の中にある膨大な記憶の箱をかき分けるようにして
瞑想の原点を探すと、学生の頃の記憶に辿り着いた。
書道の筆を握る前や、お茶やお華を始める前に
ほんの少しだけ目を閉じて深呼吸をしていた、あの頃が私の瞑想の原点。
きっと初めは、お稽古ごとの形式的な動作のひとつとして行っていたのだろうけれど、
大人になるにつれ幾度か縁があり、
再び、瞑想を見直すようになった。
今は、子どもだった頃とは違って、
この時間を自ら求めていることが少し面白くもあり、
(まだまだなのだけれど)私も大人になったものだ、と思ったりもする。
10分程度の瞑想のつもりが、
つい40分、1時間と経過していて驚くけれど
知らず知らずのうちに浅くなってしまっていた呼吸が深くなり、
体中にフレッシュな酸素が行き渡ると、体の芯からポカポカしてくる。
頭の中も空っぽになって、シンプルな自分だけが残る。
そして最後は、自分の今日を、自分の今を過ごそう、と思う。
不思議なもので、そう思えると自分の頭の中で渦を巻いていた事が
靄が晴れていくかのようにスーッと溶けていく。
世の中には様々な考え方がある。
コミュニティーとして活動したり動く上では
考え方の方向性などが必要な場面も実際には多々あるのだけれど
そのような中でも、それこそが絶対、というわけではない。
90%の共感、80%の共感、50%の共感、30%……それも自然なこと。
自分がどの考え方を採用するのか、
どれくらい採用するのか、しないのかは、自分が選べばいいこと。
様々な人生経験を経たからこそ、
自分の本当の声を認めた上で、
単なる我儘ではない「自分の選択」が出来るように思う。
誰だって仲良く穏やかでいたいからこそ
自分ではない自分を表に出してしまうこともあるけれど、
人同士の関係も100%になることはなく、
本当の自分ではない自分同士の繋がりは、時に複雑さを生んでしまう。
そして、本当の自分の声を完全に無視してしまうと自分へのダメージだって、
自分が思っている以上に大きいものだ。
例え相手の想いに共感できない場面、行き違いに遭遇しても、
相手がどういう時に、自分とは違うことを感じるのかを知ってみる。
「知ろうとする」ということも「思いやり」のひとつ。
「一緒」「同じ」という共感も素敵で貴重だけれども、
「一緒」「同じ」ではないけれど、
「異なる」上での「思い合い」という繋がり方も
決して悪いものではないと思う今日この頃だ。
とは言っても、全てがそう簡単には行かないのも現実で、
またそこが生きている感じがして興味深いのだけれども。
話がゆらり、ゆらりと、たゆたってしまったけれど、
新年度の目に見えない疲れが心身共に蓄積されているような気がしている方は、
深い深い深呼吸、瞑想でリフレッシュしてみませんか?
そして、GWの計画を立ててエネルギーをチャージしてくださいませ。
今日もあなたが笑顔でありますように☆彡
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◆みんなが笑顔で過ごせるように、自分にできることを考えてみませんか。