ここ数日、人との関わり方についてお話する機会や、
人との関わりの中で起こった事を聴く機会が多かった。
季節の変わり目だったり、
各々にとって何かの節目だったり、
といったタイミングでこのようなことが、
あちらこちらで話題に上ることは珍しくはないのだけれど、
あまりにも話題がリンクし過ぎていたので、
それらの事柄をぼんやりと思い返しながら
いつもの如く好きな飲み物を「(あ~生き返る~)」などと思いながら飲んでいた。
人間関係と書くくらいだから、
人との関わりは、人と人の間に生まれるものなのだけれども、
そのもとになっているものが、それぞれが持つ、それぞれが思っている
「一般的」だったり「普通」と思っているものだから
それがある程度の共鳴をすれば良い関係が築けるけれど、
そうでなければトラブルという形になってしまうことも中にはある。
私もそうなのだけれども誰もが皆、
自分基準の「一般的」や「普通」といった物差しを持っている。
だから何かトラブルに見舞われたとき、
瞬時にまずは、自分基準で物事を見たり、感じたりしてしまうことが多い。
だけれども、相手にも相手の「一般的」や「普通」という物差しがあって、
それが自分と違うということが露呈しただけだ。
ここで一呼吸つけるかどうかで、その後の流れも変わってくるように思う。
そして、その物差しも、
互いに見せ合って細部まで違いを確認するわけでもないので
ちょっとした事を大げさに受け止めてしまっていることだってある。
例えば、誰かに迷惑や負担を掛けると申し訳ないと感じたり、
自分が全ての事を把握していないと落ち着かなくて、
一人で全てを抱え込んでしまう人は多いものです。
特に真面目気質であると言われている日本人はこの傾向が強いのだとか。
納得して頑張ることが出来ているうちはいいのだけれど、
人は24時間365日、良いコンディションを保ち続けることは難しいものです。
ふと息切れを起こした時、
「納得」が「不満」というものに姿を変えることもあります。
だけれども、それに関わっている相手の受け止め方は、
相手の持つ物差しが基準になるので、
近いことはあっても自分と同じではありません。
迷惑だろう、負担だろうと思っていたことが
相手にとっては頼られて嬉しいとか認められていると感じて嬉しいとか、
信頼されているように感じられるという事もあり、
「自分が気にしているほど、相手は気にしていない」こともあります。
もしくは相手も手伝いたいと思っていたけれど、
この人は一人で全部をしたい人なのだろう、
このようなスタイルが好きなのだろうと思われて、
相手が声をかける隙を自ら無くしてしまっている場合もあります。
このように、物差しが違うが故の行き違いが生まれます。
もちろん、とてつもなく大きな負担になるようなことであれば
話も変わってくるとは思うのですが、
互いに補い合う中で築かれる関係性や絆というものもあります。
だけれども、自分が良いと思っている方法が必ずしも成功するとは限らず、
何にしても「一方的」な状況になっている時には、
何かしらを見直していい塩梅を見つけることも必要なプロセスなのかな、
などと思ったのでありました。
いつの時代も人間関係というのは難しいもののようですね。
そう思うと、今自分の周りに在る繋がりや関係性は
とても有り難いものなのだと改めて感じられるような気がしました。
在って当たり前のものは無く、
ひとつ、ひとつが奇跡レベルのようなことなのかもしれません。