歯科医院の待合室で少し緊張気味に順番待ちをしていたときのこと。
治療を終えて安堵の笑みを浮かべた小学生くらいの男の子が
私の近くに座っていた母親の横に滑り込むようにして座ったのです。
治療中の緊張が解れたのか男の子は急におしゃべりになり、
学校であった出来事を次から次へと母親に話していました。
微笑ましく思いつつスマートフォンの中を覗いていると
男の子がこのようなことを話し始めたのです。
「出刃包丁ってね、出っ歯の人が作ったから出刃包丁って言うんだよ」と。
聞き拾ってしまった会話に、私は心の中で「(そんな馬鹿な)」と返します。
同じようなタイミングで男の子の母親も笑いながら
「それ、ほんとなの~?」と返していました。
すると男の子は少々ムキになって「ほんとだよ、先生に教えてもらった」と言っているではないですか。
私は彼らには気付かれぬように、こっそりと調べ始めました。
ちなみに、出刃包丁というのは一般的な包丁よりも幅と厚みがある包丁で、
特にお魚を捌くときなどに重宝する包丁のことです。
出刃包丁は、江戸時代の鍛治職人が考案したもの。
刀が不要になりつつある世の中で職人技をどう活かそうか模索中だったのかもしれません。
そのような中、この包丁を売り出してみると評判も良く多くの人々に広まったのですが、
包丁と一緒に、この包丁を考案した鍛治職人の歯が「出っ歯」であることも広がり、
「出っ歯(の鍛治職人)が作った包丁」と呼ばれるようになったのだとか。
これが更に変化し「出歯包丁」と呼ばれ、
包丁は刃物であることから「歯」を「刃」に変えたらどうかという話までも持ち上がったようで、
現在の「出刃包丁」という漢字と呼び名が生まれ現代にまで残っているそうです。
「(そんな馬鹿な)」と思うような名付けは意外にも、身近にあるものですね。
そして歯科医院で出っ歯を架け橋にして出刃包丁の話題とは、
「少年よ、なかなかいいチョイスじゃないか」と話題提供者の男の子へ視線を送ろうとするも時すでに遅し。
その親子は既に歯科医院を後にしていました。
そう言えば、「包丁」という名も人が絡んでいるのです。
中国の古い書物に『荘子』というものがあります。
思想家、哲学者と呼ばれている荘子さんが書いたもので、
この書物の中に「丁(てい)」という名の料理人が出てくるのです。
中国では料理人のことを「庖(ほう)」と呼んでいました。
当時の王様が丁さんに牛を捌くよう命じたところ、
丁さんは軽やかに牛を捌いたんですって。
その一部始終を見ていた王様は丁さんの技術を褒めたのだそう。
ですが丁さんは謙虚かつストイックな料理人で王様に、このように返します。
「私が目指すのは技ではなく道。
目で見るのではなく、心のままに自然の筋にそって刃を進めれば、
刃が骨や筋に当たってしまうことはありません」と。
これを聞いた王様は、丁さんの言葉から「それは人生の歩み方にも通じる」と感動し、
以降、調理の時に使用する刃物を「庖丁(ほうてい)」と呼ぶようになったのだとか。
この話の哲学的なストーリーが後世に伝わる過程で
庖丁(ほうてい)の呼び名も日本へと伝わります。
ただ、日本では更に変化が加わり「包丁(ほうちょう)」と呼ばれています。
片や哲学的なストーリーが由来、片や出っ歯が由来と
由来にメリハリが効きすぎておりますが、包丁にはこのようなストーリーが隠れております。
包丁をお使いになる際には、ちらりと思い出していただけましたら幸いです。