あの日の私は、久しぶりに紅茶専門店でお茶をすることにした。
老夫婦がのんびりと営むそこは、隠れ家的な雰囲気をまとっており、ひとりで、ただただ紅茶を楽しみたいときに足を運んでいた。
訪れる客は皆、似たようなことを思うのか、いつも、おひとり様が多かったように記憶している。
店内に入った瞬間に体中の細胞が紅茶の香りに包み込まれ、自然と呼吸が深くなる。
おっと、ここは自宅ではないぞ。
全神経が緩みきってしまう前に、少しだけ背筋を伸ばして余所行きの顔を保つのも、いつものこと。
案内された場所は、日当たりの良い素敵なお庭が眺められる席だった。
小さなラッキーを手にした私は、この日時を選んだ自分を心の中で自画自賛した。
広げた状態で手渡されたメニューは、歴史を感じさせるものではあるけれど、上品な光沢感を放つベルベット生地で覆われており、ずっしりとした重みが妙に心地よかった。
メニューを広げて茶葉を選ぶのだけれども、茶葉の知識が浅かった当時は何をどう見て決めたらいいのやら、頭の中に沢山のクエスチョンマークが浮かび上がった。
だけれども、それ以上に知らない世界への扉がたくさん記されているようでもあり、今日は、どの扉をノックしてみようかしら、そのような気分で茶葉を選んでいた。
様々な扉をノックしてみたけれど、当時、一番好きだった紅茶「アールグレイ」を頼むことが多かった私に店主が言った。
あまりたくさんの量の茶葉がないものだからメニューには載せていないけれど、おすすめのアールグレイをミルクティーにして飲んでみないかと。
普段は専らストレート派なのだけれど、そう言われて断る理由はどこにもない。
私は二つ返事で、そのおすすめをいただくことにした。
アールグレイという名の紅茶は、ベルガモットという名の柑橘の香りを付けたフレーバーティーで、もとになっている茶葉も多種多様。
ダージリンの茶葉に香り付けされたダージリンのアールグレイもあれば、アッサムのアールグレイもあり、ブレンド茶葉のアールグレイなどもある。
元になる茶葉によって味や香りが大きく異なる点もアールグレイの魅力のひとつ。
その時に出していただいたアールグレイは、3種類のダージリンのブレンド茶葉にベルガモットが香り付けされたものだったけれど、私が、それまでに飲んだアールグレイの中で一番、香り豊かなものだった。
紅茶1杯で、こんなにも幸せなため息が出るのかと、少し驚いたことを覚えている。
じっくりと味わって、お会計を済ませると、店主が「今度は少し変わった飲み方を教えてあげるから、良かったらまた寄って」と声をかけてくださり、間髪入れずに「是非」と前のめりに答える私がいた。
そのやり取りを温かい眼差しで見守って下さっていた奥様が続くようにして、「あなたにとっての最高な一日をお過ごしくださいね。」と言って見送ってくれる素敵な隠れ家。
ただ、理由は分からないのだけれど、それから程なくしてお店は閉められ再開することはなかった。
老夫婦は元気にしているだろうか。
そして、少し変わった飲み方とは、どのような飲み方だったのだろうか。
答えは確かめられないけれど、あの時に飲んだアールグレイは本当に美味しかった、と今でも思う。
久しぶりに降った雨を眺めながら自分で淹れたアールグレイのおともは、イギリスの田舎町でのあの日の記憶。
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