まだ肌寒さ残る3月半ば頃、
私は外出先から帰宅するため、電車に揺られていた。
4人掛けボックスシートの窓際に腰かけて手持ち無沙汰を紛らわすため、
窓に流れる景色をただただ目で追っていた。
ふと空へ視線を向けると少々雲行きが怪しくなっていることに気付いた。
旅行の達人や出張の達人は折り畳み傘を携帯しているという。
私の周りにいる彼らも大人のたしなみ、社会人としてのたしなみ、
という顔付きで鞄の中から折り畳み傘を取り出していたことを思い出した。
一方、私はというと、降るだろうか、降らないだろうか。
「(どうか、目的地に到着するまでは降らないで。)」
あの頃も今も変わらず、心の中で、そのような神頼みを繰り返している。
その日も神頼みをしていると、
不意にゴロゴロゴロ、ドカンッと、どこかに雷が落ちたと確信できるような音がしたのだ。
いい大人が恥ずかしいけれど、私は、大の雷嫌い。
その、ゴロゴロゴロ、ドカンッという豪快な音にビクッと身体を揺らしてしまった。
何もなかった顔をするしかない状況下で
体の奥から込み上げられる熱を感じていると、
向いの席に座っていた女子大生らしき女性が、「あの……」と声をかけてきた。
恥ずかしい気持ちと帯びる熱を全力で振り払いながら、
出来る限り何ごともなかったかのような素振りで視線を向けると、
「ごめんなさい、さっきの雷の音は私のスマホの着信音です」と彼女。
「ん?」
その発言に促されて窓の外へと目を向けると、
そこには雨雲は流れ去ったかのような空が広がっていた。
確かに、冷静に振り返ってみると
電車の中だというのに妙にクリアな音質だったような気がする。
「(なーんだ、そうだったのか)」とホッとした気持ちが体から漏れ出てしまったのか、
彼女も少しだけホッとしたような表情で
学校の友人にいたずらをされてしまったようだと話してくれた。
雷音の出所が自分だと気づいて焦って固まってしまったということも。
「雷」は「神鳴り」とも言われ天の神様が鳴らす音、というのが語源。
先人たちにとって雷や稲妻は、よく分からない未知の存在だった。
響き渡る音だけではなく空を引き裂くかのような稲妻や
落雷によって燃え倒れた木を目にした時には、さぞ恐ろしかっただろうと思う。
先人たちは、このような説明が付かない未知の存在に対して
「神」や「申」の文字を使って記したという。
私は話もそこそこに降車することになり、
彼女との会話は中途半端なところで終わってしまったけれど、
これは神鳴り(雷)が運んできてくれた出会いだったのかもしれない。
普段は、雷なんて鳴らさなくてもいいのにと思ってしまうのだけれども、
このようなことが起きると、ほんの少し、本当に少しだけ、
神鳴り(雷)も思っている程、悪くはないのかもしれないと思えるのだから、不思議なものだ。
何気ない日常の中にも色々なモノが転がっている。
今日は、その色々なモノをいくつ見つけられるだろうか、感じられるだろうか。
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