英国暮らしをしていた頃、
「することがないのなら家に来てお菓子作りでもいかが?」と誘って下さる方がいた。
彼女の名はエリザベス。
エリザベスは、周りの方々の話によると、
お料理教室やお菓子教室を開くことができるくらいの腕前で、
ご近所の方々からも教室を開いて欲しいと何度もお願いされていたらしいのだ。
しかし、とても気まぐれな性格で、
約束の日にキッチンに立ちたい気分かどうか分からないから無理だという理由で、
お願いを断っているということだった。
確かに、美味しいお料理を振舞ってくださるだけでなく、
様々なレシピを手際良く教えてくださったりもして有難かったのだけれども、
いつも突然すぎるお誘いで困っていた私は、それでか……と、妙に納得したのを覚えている。
あの日も彼女は誰かとキッチンに立ちたい気分になったのだろう、
いや、見知らぬ国で頑張る日本人を気にかけてくれたのかもしれない。
「いかが?」と急なお誘いを投げかけてきた。
あまり乗り気ではなかった私は丁重にお断りさせていただこうとしたのだけれど、
「今日はショートブレッドを作るのよ」という言葉にあっさりと乗ってしまった。
ショートブレッドは、400年も昔にスコットランドで生まれた伝統的なお菓子で、
昔はお祝い事があった時に作る縁起物のクッキーだったのだそう。
今では年中好きな時に口にできるくらい定番のお菓子となり、
紅茶との相性が良いことからアフタヌーンティーのお供として登場する機会も多い。
日本では赤いチェック柄のパッケージでお馴染みのウォーカー社のものがメジャーだろうか。
この伝統的なお菓子を本場の人は、どのようなレシピで作るのか、
何か隠し味のようなものがあるのだろうか。
市販されているショートブレッドしか口にしたことがなかった私の、そのような興味が、
私をエリザベスの家へと向かわせた。
しかし、初めて見たショートブレッドの材料は至ってシンプル。
400年も昔から作ることができたのだから当然と言えば当然なのだけれど、
薄力粉、砂糖、バターのみ。
本場ならではの隠し味のような何かは見当たらなかったけれど、
強いて挙げるならば、何度か繰り返された「発酵バターが良いわね」という彼女のフレーズから、
ショートブレッドを作るのなら発酵バターで。と私の頭の中にインプットされている。
材料をしっかりと混ぜたら生地を冷蔵庫で寝かせ、
形を整えてオーブンで10分から15分ほど焼くだけの簡単レシピだったのだけれども、
私が驚いたのはバターとお砂糖の量の多いこと。
確かに、美味しいショートブレッドはひと口食べただけで、
あ、カロリーが高いな、という味がする。
だけれども、あんなにもバターとお砂糖が多いなんて……。
ショートブレッドに対する眼差しが変わりかけていたタイミングで
焼き上がったエリザベスレシピのショートブレットを差し出され、
焼きたてを口にしたのだけれど、あまりの美味しさに目をギュッと閉じて静かに味わった。
そして、こんなに美味しいショートブレッドは初めて。
気付けば、そのような言葉をお世辞抜きの素で言い放つ私がいた。
「美味しいものは脂肪と糖でできている」
どこぞやのCMで耳にするけれど、当時の私がこのフレーズを耳にしていたら、
うん、うんと大きく頷きまくっていたに違いない。
計量が面倒でお菓子作りが苦手な私だけれども、
ショートブレッドだけは自身があるのだ。
しかし、あのカロリーを目の当たりにした私は、
材料を並べただけで罪悪感に包まれてしまうため、
未だ、片手で足りるくらいの回数しかショートブレッドを焼いていない。
そして、大好きだったはずのショートブレッドを口にする機会もめっきり減ってしまった。
簡単すぎるレシピゆえ、腕が鈍るも何もないのだけれど、
もう少しだけ涼しくなったら、今年はショートブレッドでも焼いてみようかしら。
雑誌のページで目にしたウォーカー社のショートブレッドを眺めながら
エリザベスの気まぐれエピソードを思い出し笑いしつつ、そのようなことを思った。