近所を歩いていると、自転車に乗ったお坊さんとすれ違うことがある。
スクーターなどに乗り、涼し気なお顔で移動するお坊さんを見かけることは意外と多いけれど、
自転車に乗ったお坊さんは、私の目には少々新鮮に映ったのか強く印象に残っている。
そのお坊さんは、黒い直綴(じきとつ)に小さな略袈裟の絡子(らくす)を胸に下げていた。
そして、自転車を左右に大きく傾け、体は自転車とは逆方向へテンポよく揺らしながら、
勢いを感じられる立ちこぎスタイルで通り過ぎていくのだ。
自転車カゴの中に入れられた包みが今にもカゴから飛び出してしまいそうな様子に、
私を含め、目にした者はヒヤヒヤすることだろう。
私が初めてそのお坊さんを見た時には、セグウェイにでも乗っているのだろうか?
サドルがないのだろうか?と妙な違和感を抱き、凝視せずにはいられなかった。
お坊さんは、そんな私の視線に気づいたのだろう。
額を汗で輝かせながら満面の笑みで「こんにちは」と大きな声をかけて通り過ぎた。
最近、久しぶりにそのお坊さんを見かけたのだけれど、
肌寒い季節になったというのに、相も変わらず額に汗して立ちこぎをしていた。
現在のお坊さん事情は存じ上げないのだけれども、
昔からお坊さんの修行は厳しいものだと言われている。
私たちが知っていることと言えば、早朝からはじまる修行に質素なお食事、
規則正しい生活が続く日々の生活そのものが丸ごと修行というイメージだ。
その昔の時代にはお坊さんになれば飢えることはないと言われたこともあり、
お坊さんという職業は人気だっというけれど、
通常の生活を送ってきた人が簡単な気持ちでお坊さんになろうとしてなれるものではない。
ただ、やってみなくては分からないと思う人が多かったのだろう。
修行に入ってみたものの耐えることができずに3日ほどで逃げ出してしまう坊主見習いが多く、
彼らのことを“三日間だけのお坊さん”と呼んでいたのだそう。
これが後に“三日坊主”と呼ばれるようになり、
更には物事を続けられない人のことを三日坊主と呼ぶようになったと言われている。
※この由来は様々なところで語られているのですが、諸説あるなかの有力説のひとつで、本当の所は定かではありません。
私は、全力疾走感溢れる自転車の立ちこぎですれ違うお坊さんを見かける度に
この三日坊主の語源を思い出す。
そして、このお坊さんは、どのような時代に生まれていても三日坊主になることなく、
お坊さんになれた方なのだろうな、と思ってしまうのだ。
あんなにも一生懸命に駆けつけてくれたらなら、
駆けつけてもらった側は安堵するのではないだろうか。
自分が真剣に取り組んでいることが巡り巡って誰かの気持ちを温かくするものであると気付けたら
自分の気持ちも巡り巡って温かくすることができるのだろう。
ハッピーの連鎖の始まりはすぐそばに。
久しぶりに見かけたお坊さんの後ろ姿を捉えながら、そのようなことを思った、ある秋の午後。