春の暖かさを肌で感じながら歩いていると、目の前を蝶が横切った。
蝶は、吉兆モチーフでもあるのだけれど、
私にとって、少々思い入れのある存在でもあることから、見かけるとつい目で追ってしまう。
この時季の時候(じこう)の言葉に夢虫(ゆめむし)というものがある。
今回は夢虫の話を少し、と思っております。
春の柔らかい陽射しと共に、ちょっとした読書気分でお付き合いいただけましたら幸いです。
この夢虫というのは蝶のことで、
先人たちは、蝶のことを夢虫、夢見鳥などとも呼んでおりました。
このような別名の語源は、中国の思想家・哲学者である荘子が残した話のひとつ、『胡蝶の夢』だと言われています。
私は、人様に語れるほど彼の話を読み漁った経験はないのですけれど、
荘子が残した神話、伝説、寓話、説話とも言えるような話と言えば、
『胡蝶の夢』を挙げる方が多く、目にする機会も多いような気がしております。
そのため、勝手ではあるのですが、
荘子が残した話の中では、『胡蝶の夢』が最もポピュラーなのではないだろうかと思っています。
この『胡蝶の夢』は、翻訳してあるものも多々見かけるのですが、
はじめから読むのは難儀だと思われる方も多いかと思いますので、
どのような話なのか、簡単に触れさせていただきますね。
これは、荘周という人が見た夢のお話。
荘周というのは荘子自身のことなのですけれど、話の中では荘周の名で登場します。
荘周は、ある日、蝶になっている夢を見たと言います。
彼は夢の中で、人間であるときの感覚とは違って、
ひらひらと自由に心ゆくまで空を舞って遊んでいたと言います。
その時間が、余程、楽しかったのでしょうね。
彼は自分が荘周という名の人間であることを忘れ、舞うことに夢中になっていたのだとか。
しかし、ふと目が覚めます。
そこには、空を自由に舞う蝶の自分ではなく、
人間の姿をした自分が居たのだけれど、彼は、このようなことを思うのです。
一般的に、現実と夢の世界は異なるものとして認識されているけれど、
夢を見ていた時の、蝶だった自分を思い出しながら考えてみると、
夢の世界の方が現実だった可能性も全く無いとは言い切ることができず、
今、現実だと思っている世界の方が本当は夢の中、という可能性もあるのかもしれない、と。
そうなると、自分が夢の中で蝶になっていたのだろうか。
それとも、本当の自分は蝶で、今、蝶の自分が人間になっている夢を見ているのだろうか、と。
夢の世界と現実世界の狭間を舞う蝶を想像する幻想的な世界観の話なのですが、
要約すると、全ての存在は常に変化していくもの、そして移ろいゆくものであり、
永遠に変わらぬものなどない、ということを含んでいたりします。
このような話をもとに蝶のことを別名「夢虫」、「夢見鳥」と呼ぶようになり、
蝶が飛び回る春、今頃の時季の時候(じこう)の言葉や挨拶に、
夢虫(ゆめむし)が使われています。
思想家・哲学者である荘子が残した『胡蝶の夢』というだけあり、
様々な解釈や置き換えができるので、その辺りに触れて楽しむも良いかとは思いますが、
蝶を見かけた際には、今回のお話を、ちらりと思い出していただけましたら幸いです。