手帳を眺めていたら、
今年はエイプリルフールとイースターが重なる年だということに気が付いた。
様々な風習を生活の中に取り入れて楽しむことに長けている日本人は、
どのようにして、この双方を楽しむのだろうかと思った。
過去記事にて、イースターやエイプリルフールが本来はどのようなものなのか、
ということには触れておりますので、
今回は、イースターをきっかけに、私が経験したお話を少し、と思っております。
海外旅行用のガイドブックなどでは語られないようなことを覘いてみたい方は、
どうぞお付き合いくださいませ。
わたくし、イギリスの小学校へ特別課外授業、異文化交流授業というような名目で
書道を教えに行っていた経験があるのだけれど、
そのご縁で、毎年行われているイースター行事に参加する機会があった。
外国人向けに手直しされたものではないものを経験できるということは、
とても貴重で有難いことなのだけれど、
その土地に深く根付いているモノゴトに「経験」という目的のみで参加する異国人に対して、
良い印象を抱かない人たちも少なからず居るということを
同時に経験する機会でもあったように思う。
その日は朝からイースターパーティーの準備に参加していた。
紙でウサギの耳を模った手作りの帽子や、
カラフルな銀紙でラッピングしてある卵型のチョコレートなどを並べ、会場も華やかに飾り付けた。
この日は、パーティーの前に教会で牧師の話を聴き、お祈りをするのだけれど、
せっかくだから、その様子を見に行ってみる?と小学校の方が声をかけてくださった。
私も、貴重な機会だと思ったものだから「是非」と答えた。
すると、異宗教ゆえ、お祈りに参加せずに残っていた子どもたちが、
あなたの神様はキリストなの?と聞いてきた。
「違う」と答えると、とても不思議そうに首をかしげ、親元へと走っていった。
アテンドしてくれていた小学校の方に「気にしないで」と言われ、私は教会へ向かった。
教会の一番後ろの席から、式典の様子を眺めていたのだけれど、
帰り際、一人のご老人が私に声をかけてきた。
「英語を話せるか?」と尋ねられ「上手くはないけれど少しなら」と答えると、
「自分の家族の葬式に、異国人がやってきて、この国の葬式はどんな感じだろうかと、興味だけで参加してきたら、どう感じるか?そんな風に考えたことがあるか?」と。
お祈りに参加せずに残っていた子どもたちからの問いかけも思い出し、
私の脳内では様々なことが巡りだし、言葉を慎重に選ばなくてはと思った。
慎重になりすぎで、言葉が出なくなってしまった私に気付いた小学校の方が、すぐ間に入り、
「知ってもらうことも、知ろうとすることも大切なことだと思う」と言い、
更に、「今日はお葬式ではない」と付け加え、その場を治めた。
ご老人は、眉間にしわを寄せたまま、しばらく私をじっと見ていたけれど、静かにその場を去った。
文化や習慣が異なる土地で、深く関わりながら暮らすということは、
国境を越える越えないに関係なく、簡単なことばかりではないけれど、
それらは良い悪いではなく、相手を嫌いになる理由でもなく、
その土地に住む一人一人に、生きてきた境遇や受けた教育、当たり前としてきたモノゴトがあり、
その中で培われた感性や性格、考え方があるということだろうと思う。
私たちは自分が感じられるものだけが真実であるように感じてしまうけれど、
モノゴトの捉え方、感じ方、見え方はひとつではないし、
見えるもの、聞こえるものが全てではない。
その時の出来事は、時間にして1、2分ほどのことだったけれど、
ご老人の言葉と眼差しは、今でも私の記憶に残っている。
当時の私は、即座に自分の思いを言葉にすることはできなかったけれど、
ある意味、真っすぐに向き合ってもらえたとも言える、ご老人との出会いは、
私にとって“意味があるもの”になったように思う。
もちろん、楽しい思い出も出会いが多々あったイースターなのだけれど、
私は、イースターがくると、このときの出来事を思い出す。
そして、共に在るためにできることや必要なことは、
全てに繋がるとてもシンプルなことだと改めて思うのだ。
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