活動しやすい季節になってきたこともあり、
陽射しと流れる風が程よく混ざり合う夕暮れ時を選んで休憩をとり、
近所をぷらりと歩くことが増えつつある。
これが大自然の中であったなら、さぞかし気持ちがいいことだろう。
車の往来を横目にそのような景色を想像しつつ、
今の自分が感じられる自然をかき集めるようにして歩く。
それだけでも、頭の中はすっきりとするし、
体中にも風が行き届いているように感じられるところを見ると、
私の、自然を感知するセンサーは、鈍ってはいないようだと思った。
その日は、家のすぐ近くにある、日本庭園付きの大きな公園に足を踏み入れた。
外側の雑音が遮断され、体の筋肉がふっと緩むのを感じた。
入り口付近で飲み物を買い、木陰にあるベンチに腰掛けた。
目の前には人工的に作られた小さな滝から水が流れ落ちており、水しぶきが飛び散っていた。
しばらくすると、足元に子犬が寄ってきた。
「すみません」と言いながら駆け寄ってきた飼い主を振り返った子犬は、
私の足を使って器用にベンチに上がり、コロンと仰向けに転がって見せた。
犬を飼ったことがある人間だということを感知したのだろうか、
子犬の無防備さから、そのようなことを思いながら2、3回ほど撫でた。
子犬は飼い主に抱きかかえられるようにして、その場から去っていたのだけれども、
首輪についていたクラシカルな小判デザインのチャームがとても印象的だった。
動物と小判と言えば「猫に小判」ということわざが浮かぶけれど、
「犬に小判」ということわざもあったという。
意味は、「猫に小判」と同じで、どんなに貴重なものだったとしても、
価値が分からない者にとっては、何の価値もないことを指している。
江戸時代では、両方とも使われており、
一説によると「犬に小判」の方が古いことわざだったようなのだけれども、
『いろはカルタ』に「猫に小判」が使われてからは、「猫に小判」が身近なことわざとなり、
「犬に小判」が使われる機会が減ってしまったと言う。
私にこのことを教えてくれた恩師は当時、
猫は十二支に入れなかったのだから、これで平等じゃないだろうかと、
人間視点での持論を熱く語っていたけれど、
彼らは、そのような人間事情など気にはしていないだろうに、と思っていたことは、
過ぎ去る夕暮れの中に混ぜ込んでしまおうと思った、ある日の散歩道。