今年も、可憐に力強く咲く桜をたっぷりと堪能した。
その日は、空が青くてとても穏やかな気候の日だったこともあり、
急遽、お花見ランチをすることにした。
ご馳走を買い込んで、少し離れた場所にある河原へ向かった。
いつの時代からその場所を流れているのか、
古そうな川を流れる水は澄んでいて離れた場所からも川底を確かめることができた。
川の流れに沿うようにして遠くまで続くように植えられている桜木を眺めながら、
1000年前のこの地を想像してみたりしながら、持ってきた缶を開けて乾杯した。
喉奥へと流れていくそれが、体中にじんわりと広がるようだった。
毎年思うけれど、一斉に花開く桜は艶やかで力強く、儚さとは無縁に感じられるときがあり、
見上げた青空に映える、ほんのりと色づいた桜は、一輪、一輪が人の目のようにも見える。
その目ヂカラの力強さたるや、まるで桜に凝視されているかのようで、怯んでしまいそうになる。
きっと、その力強さは桜が持つ生命力なのだろう。
風と共に舞い上がり川の水面に落ちる桜の花びらを眺めていると、
手元の取り皿や飲み物にも、桜の花びらがふわりと舞い落ちてきた。
桜には、祝いの席で飲む桜茶とは別に、桜の樹皮を煎じて飲む桜茶がある。
こちらは、咳止めや食あたりなどに効果があると言い、
市販されているものに成分として含まれていたりもするのだけれど、
お花見を楽しんでいた先人たちも、その日ばかりは羽目を外して、
飲み過ぎたり食べ過ぎたりしたのだろうか。
そして、桜の樹皮を煎じて飲んでいたのだろうか。
このように様々な場面で親しまれてきた桜だけれども、
時代が変われば縁起が悪いと言われてきた。
散り際に花が色褪せていく様子は「桜ざめ」と言われ、
気持ちが覚めて心変わりしてしまうことを連想させるからとの理由で、
結婚などの祝いの席では敬遠されたこともある。
桜が散ったからと言って桜が不運を運んでくるわけではない。
目の前の何に対しても自分が幸せを感じられるなら、見つけられたなら、
それが本人にとっての答えなのだと思う。
いつだって意味づけをするのは人だ。
モノゴトも自分のことも、縛りすぎず、縛られすぎず、
艶やかに力強く軽やかに、桜のようにいきたいものだ。