テレビを付けようとしただけなのだけれども、電源とは異なる何かを押してしまったのだろう。
テレビと周辺機器には、いつものランプが点灯しているのに、何も映し出さない画面。
その真黒な画面に映る自分の姿とリモコンを交互に眺めながらボタンを押すも、
現状が変わらないことに肩を落とし全てをリセットすべく主電源を切った。
私には、とりあえずテレビを付けるとか、朝は必ずこれを見る、というような習慣がない。
このことが関係しているのかは分からないけれど、時々、
この日のように、テレビのリモコン機能を思う様に扱うことができない自分にガッカリすることがある。
そして、いつからだろう。
引越しをする度に、新しい地域のチャンネルや系列局などを覚え直すことが面倒になり、
それらを記憶することを放棄した私がいる。
周りからは、覚えようとしなくても見ていれば覚えるでしょうと不思議がられるのだけれど、
覚えることを潔く放棄してしまった私の頭には、潔いほどに、何もとどまらないのだ。
しかし、その日は、どうしても録画予約をしたいプログラムがあり、
半ば祈るような気持ちで主電源を入れ、リモコンの各スイッチを順に押した。
録画予約作業中のBGMは、ゴールデンウィークにおすすめだという観光スポットの話題だった。
幾度となく耳にした、たくさんの人、たくさんの観光客、たくさんの買い物客、たくさんの子ども達という言葉。
この「たくさん」に違和感を抱く人がどれほどいるのだろうか、と思った。
私は学生の頃に上記のような使い方をして指摘されたことがあった。
「たくさん」はモノに使う言葉で、人に対して使うときには「大勢」を使うのだと。
「たくさん」は、何に対しても使うことができる便利な言葉だけれども、
「大勢」は、人や人の命にしか使うことができない貴重な言葉だとも。
今、「たくさん」という便利な言葉が「大勢」という言葉を飲み込みかけているのかもしれない。
便利なものを選び取っていくことは、決して悪いことではないけれど、
貴重な言葉が消えかけていることに対して考えさせられる現状でもある。
言葉が、人々の日常に浸透し、受け継がれるまでに育つには長い月日を要するけれど、
消えるときは人知れず消えていってしまう。
そのようなことを思いながら録画予約を済ませ、テレビの電源を切った。
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