少し前の出来事だ。
電車に乗り、出入り口近くの席に腰を下ろすと、次々に乗車してくる人であっという間に車内が満員になった。
私の前には、まだまだランドセルの存在感の方が大きいように見えるチビッ子集団が陣取った。
電車の揺れにふらつくこと無く、揺れに身を委ねて立っている様子は頼もしくも見えた。
突然、1人のチビッ子が何の前振りもなく、うちのお母さんは電話のときだけ、すごく声が変わるのだという話を始めた。
このくらい違うのだと皆に伝えたかったのだろう、ご丁寧にモノマネ付きであった。
そのモノマネに触発されたのか、他のチビッ子たちも、私のお母さんはこんな感じだと競い合うようにして話始めた。
母親がお菓子を食べながら低音で話す様子に始まり、電話が鳴る。
それはいくら何でも大げさすぎるでしょう、と突っ込みたくなるような高音での母親の電話応答までの寸劇仕立てのお喋りに、
何食わぬ顔でその場に居合わせている、私を含めた大人たちの多くが、
チビッ子たちの盛り上がりに視線を奪われていた。
人の口に戸は立てられぬと言うけれど、チビッ子たちの口も然りである。
日本人女性の声について研究されている方の記事を目にしたことがある。
その方の話によると、私たちの声は社会によって作られ、その社会は人の声によって作られる一面もあるという。
人は、無意識に周囲の音を聞き、その音に合った自分の声を確かめながら発している。
例えば、大音量のBGMが流れているようなイベント会場で会話をする際には、普段よりも大きな声を出すけれど、
静かな電車内や病院などでは、その場に見合った小さな声でやり取りをするようなことだ。
そして、人にはそれぞれ標準音量があり、これには個人差があるけれど、
これは、大家族や大きな声で話す人が多い環境で育てば、大きな声や通る声の出し方を自然と身に付けることになっており、
逆に、大きな声を出す必要がない静かな環境で育っていれば、大きな声を出す機会が少ないため、大きな声や通る声の出し方に慣れておらず、標準音量も小さい。という傾向も同時に起こっている。
何気なく発せられる声だけれど、このように脳と体を使って発しているため、
その時々の体調や様々な感情が反映されているという。
そして、この研究者は、多くの国で声の高さを調べたそうなのだけれども、日本人女性の声は世界一高いのだとか。
面白いのは、地声が世界一高いとうことではなく、
地声よりも高い音域の声を作り、その作り声で生活をしている傾向にあるということだ。
チビッ子たちが感じ、話していた通りなのだ。
日本人女性の体格や声帯には、特別に声が高くなるような要素はないけれど、地声を封じ、高音の作り声で話すのだ。
“よそゆきの声”という言葉は、もしかしたら日本人による、日本人のための言葉なのかもしれない。
高い声は、生物として未熟な状態いで弱く、誰かの助けや守りが必要だということの表れで、子どもや若さの象徴でもある。
それゆえに、高い声を聞いた成熟した者や強者、そう在りたいと思う者は、
弱者に対して若さや可愛らしい印象を抱くのと同時に、
助けたい、守りたい、保護したいという欲求が生まれる。
日本人女性が歩んできた背景や置かれてきた環境、子どもの頃から見てきた周りの大人たち、
そして、世の中から求められてきた女性の在り方などの様々が、無意識の想いと混ざり合い、
発する声に表れ、そうすることが国民性のようなもののひとつとして定着しているようにも見える。
もちろん、日本人の場合は、相手を思いやる気持ちが根本にあるという見方もできると思うのだけれども。
実は年々、男性の声も高く、優しい響きの声になっており、女性と同じで地声を出さない傾向にあるそうなのだ。
これは、女性の声が高くなっていることに男性の声が影響を受けているという見解なのだとか。
先ほど触れた、声は社会によって作られるというものだ。
私の前で、母親の声の使い分けを純粋に不思議に感じ、面白いと感じ、
真似て、笑い転げるチビッ子たちを見ながら、声の在り方にも時代が映し出されているのかと思
った。
社会によって作られる声と、声によって作られる社会。
このようなことからも、ひとりで生きているのではないことを感じさせられるとは。
世の中は紙一重。
そして、“人はひとりでは生きられない”という月並みな言葉があるけれど、良くも悪くもかと思ったりもして。
それにしても、チビッ子たちの会話というものは、
各ご家庭のリアルな日常を、半強制的に覗き見せられているような気持ちになることがある。
その場に、それぞれのお母様たちが同伴していなくてよかった。
そのような思いで、目の前で繰り広げられる楽しそうな寸劇を微笑ましく見守った。
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