飲食店で突然、店員に向かって「何もかもが遅い」と大声をあげた方がいた。
その日はとても暑かった上に、待ち時間も少々長めだったこともあり、
大声をあげた方も、自分で把握している以上に、疲れてしまっていたのかもしれない。
ただ、その大声によって一瞬、店内にはエアコンとは異なる冷たい空気に包まれ、
お店の奥にある厨房からの音だけが妙に際立った。
時間にして10秒ほどだろうか。
あっという間に流れていった出来事で、店内はすぐに柔らかい空気に戻ったけれど、
大声を浴びた店員が私の横を通った際に、誰が見ても分かるくらいにトレイを持つ手が震えているのを目にし、
胸の奥をぎゅっと掴まれたような気がした。
目の前の出来事は全て、出来事でしかないのだけれど
私たちは、その出来事を自分の価値観を通して見て、眺めて、時に良い、悪いと判断を下すことがある。
大声をあげた方のように感情が爆発したり、乱れてしまうときと言うのは、
目の前の出来事に対する反応である以前に、自分の価値観によって引き出された感情も混ざっているように見える。
だから、自分の感情が爆発しそうになときや乱れそうになったときに、
目の前の出来事をきっかけにして、
自分の価値観によって引き出された感情が爆発しそうになっている、乱れそうになっているということに気付くことができ、ひと呼吸置くことができれば、
また爆発や乱れといった衝動的なリアクションとは異なるリアクションが、自分から出るのではないかとも思う。
例えば、少々過度な「どんな時も礼儀正しくしなくてはいけない」という価値観があったとする。
そうすると、そうでない人や、それができていない人を見ると、
自分に被害が及んだわけではないのに腹立たしく感じてしまうことがある。
一方で、その価値観を持ちながらも「礼儀正しさ」も「表し方」もひとつではないという視点、
今回の出来事であれば、「もしかしたら新人かもしれない」だとか、
「他にそうした理由があるのかもしれない」だとか、
「まだ経験不足なだけなのかもしれない」といった視点になると思うのだけれども、
その時々の相手をニュートラルな気持ちで見ることができれば、
パートナーとの関係や子育て、その他全ての一期一会を含めた人との関り合いの中でも、
過度な怒りや、その他ネガティヴな感情が衝動的に飛び出すことはなく、
ひと息ついた上で目の前の出来事を眺められるように思う。
もちろん、接客というシチュエーションを通して出来事を見たときには、
お客様の前に出る際、お客様にとっては相手が新人であろうがベテランであろうが関係なく、
そのシチュエーションが店員にとっては数ある中の1回だったとしても、
お客様にとっては、一生に一度の1回、生死に関わる1回ということも多々あるため、
初めから失敗してもいい、ということにはならないのだけれども。
今回の出来事は、大声をあげた方にも暑かった、待たされたという思い以外にも、
何かしらの事情があって偶然にも、あのタイミングで爆発してしまったのかもしれないし、
その相手として、たまたま、あの店員が当たってしまったという状況だったけれど、
その日目にした光景に、私の体は、自分が頭で思う以上にドキリとしてしまった。
だから、トレイを持つ手が震えていた店員が笑顔でお水を注いでくれたとき、
いつもの数割増しの笑顔でお礼を伝えてしまったのだと思う。
お店を出る際に、例のお客と店員をちらりと見てみたけれど、2人とも何ごともなかったかのような笑顔で各々の時間を過ごしていた。
まぁこれも、よくある日常の風景のひとこまだ。
この世は日々、至る所で様々な物語が繰り広げられ、絡み合い、主人公は人の数だけ存在している。
そのような事を思いながら炎天下の中、自分自身の物語へと踏み出したのだけれども、
せっかく食べた、美味しいと評判だったビーフシチューの味が、全く記憶に残っていなかったことが、非常に心残りであった。
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