ちょうどいい加減と言われるくらいが一番だと頭では分かっているはずなのに、
人の向上心や探求心が、人を飽和点へと向かわせる。
そして、飽和点に達し、十分すぎるほどに満たされると、様々な理由が挙げられ、並べられて、原点へと舵を大きく切り返す。といった光景が、世の中には多々見られるように思う。
全ての人が同じ方向を、同じ熱量で向いているというわけではないけれど、
水族館の魚の群れが、一斉に進行方向を変えるときの光景のようにも見える。
数年前に柔軟剤の香りについて触れたことがあるのだけれど、
先日、柔軟剤や洗濯洗剤の香りの主流が、せっけんの香りに変わりつつあるという話を目にした。
確かに、この柔軟剤や洗剤の香りに関しては以前から賛否両論があった。
柔軟剤や洗剤の香りと聞くと、香水よりもナチュラルなもだというイメージがあり、
使うことへのハードルも低いことから、誰かの迷惑になることとは無縁のように感じられていたけれど、
使い方によっては、香害という言葉が登場することもあった。
また、個々の使い方、使う量に問題が無かったとしても、
各社が発表した様々な香りが公共の場で少しずつ混ざり合うことで、何とも表現し難い香りになり、体調を崩す方もいたと聞く。
わざわざ臭くなろうと思って香りをまとう方はゼロに等しいと分かってはいるけれど、香りに対して抱く印象は本当に様々で、
人工的に作り出された香りの中に、番人受けする香りというものは、実際のところ、そう多くはないように思う。
このような香害に対する声がきっかけなのか、柔軟剤や洗剤で香水のような香りをまとうことが飽和点に達したからなのか、
ここ最近では、 せっけん以外の成分を極力抑えた“せっけん本来の香り”に回帰する流れが生まれ始めているという。
人の嗅覚は麻痺しやすいと言われている。
お気に入りの香りであったとしても、いつの間にかその香りを感じられなくなっていたり、
心身が、お気に入りの香りに疲れてしまっていることもある。
このような状態は自分では、気付くことができないため、
時々、シンプルな柔軟剤で心身をリラックスさせつつ、嗅覚を休ませてみるのも良いのではないだろうか。
初めは物足りなさを感じるだろうけれど、次第に繊細さを感じられる本来の状態に戻ることで、
お洗濯ものの香りだけでなく、繊細な季節の香りを楽しむことができるようになるだろう。
更に、嗅覚と密接な繋がりがある味覚も、本来の状態に戻ることで、食事がいつもよりも美味しく感じられるだろうし、
感覚がクリーニングされることで、心身が軽くなっていることを実感できたりもするように思う。
こうして、ニュートラルな状態に戻った嗅覚でもう一度、以前使っていた柔軟剤を使ってみると、
その香りや自分の使い方に対して、改めて感じられることもあるかと思うのだ。
香る柔軟剤の飽和点は、嗅覚のクリーニングを知らせるサインなのかもしれない。
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