郵便受けの中に手を押し込んで郵便物を端に寄せ、ざっと掴んで引き出した。
やけに多い不要なチラシの中から、真っ当な郵便物だけを引き抜きながらエレベーターホールに向かっていると、
届け先を間違った郵便物が紛れ込んでいた。
封筒の隅には、カラフルなインクを使った『同窓会案内』のスタンプが押してあった。
部屋番号を確認し、本来届けられるべき郵便受けへ差し入れると、カタンッと乾いた音がした。
同窓会の文字を見て同級生、同学年といった言葉が浮かんだのだけれど、
年々、同年齢という意味で同級生という言葉が使われることが増えてきているように思う。
出身地が異なる方々に、「私たち、こう見えて同級生なんですよ」という紹介をいただいたり、
「同じ年なら、私たちは同級生ですね」と言われたり。
もちろん、その多くが同年齢だということを伝えたい気持ちから使われていることは分かるため、
わざわざ、その場の空気を壊すような指摘はしないけれど、
「同級生」という言葉も、その立ち位置を巡って揺れている言葉だと実感する。
本来、同級生という言葉は、同じ学級(クラス)の生徒を表す言葉なので、
出身地や学校、更には同学年であっても学級(クラス)が異なる者同士に対しては使うことが出来ない。
もし、同じ年齢だということを伝えたいのであれば、そのままシンプルに「同年齢」もしくは、「同学年」が正しいとされている。
以前、言葉に厳しい方とお仕事をご一緒していた時期があったのだけれど、
その方は、同級生という言葉が飛び出すと、「担任の先生が同じだったのね」と、
少し意地悪にも聞こえる返答をすることがあり、当時の私は、そのフレーズを耳にする度に、何とも落ち着かない気分を味わっていた。
ただ、思うことがあるのだ。
日本語ならではの繊細さは、ときに面倒に思えるようなこともあるけれど、
例えば、「1+1=2」であると誰もが知っているからこそ、これをベースにして様々なことを共有し合えているように、
その繊細さは、繊細な思いを、できるだけ思いに近い形で表現することができる最強のツールであり、
そうすることで関わり合う相手と、より深く分かり合うことができるのではないかと。
完璧である必要はないけれど、そのようなことができる言葉は日本語だけのように思う。
同窓会の文字に振れ、そのようなことをぽつり、ぽつりと思う午後。
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