インターネット上で偶然目にした、とある呟きに次々と辛辣なコメントが寄せられていた。
どのような物事にも賛否両論があって自然だと思っている私は、
気に入らないのであれば見なければいいだけの話だとシンプルに思うけれど、
感じた先の行動もひとつだとは限らず、ひと言モノ申したいと思う方も、ある程度の数、居らっしゃるのだろう。
そのバランスが異常な崩れ方をしたときに、今で言うところの「炎上」という状況が起こる。
言葉を扱う立場に在りながら、言葉の扱いは難しいと痛感させられる日々を送る私は、
先日も、言葉を上手く選び取ることができなかったことに、湯船の中で静かに凹んだばかりだ。
言葉との関係も、思い慕う人とのそれと同じように、ゆっくり焦らず丁寧に深め合っていくしかないと思いつつ。
そう言えば、先月だっただろうか。
インターネット上での投稿内容が非難を浴びて「炎上」した際の、
文面や画像など、投稿内容を供養する「炎上供養」なるものがあることをニュースで知った。
新潟県にあるお寺のご住職が、インターネット上での発言が非難を浴びて起こる「炎上」は、
現代の災難の一種だと考え、提案したという。
炎上供養は、炎上した投稿文などを撫木(なでぎ)と呼ばれる木製の細長い札に書き込み、
画像の場合は、プリントしたものが撫木(なでぎ)に巻き付けられ、お焚き上げされるのだそう。
炎上供養は、現在もお寺(国上寺)のホームページから特設サイトに移動し、個人でも企業でも無料で炎上供養をお願いすることができる。
かつてのお寺は、時代の最先端をゆく場所だったと聞く。
そう思うと、私が斬新だと感じた炎上供養も、それほど違和感を覚えるようなことではなく、
これも時代の流れ、ということになるのだろう。
災難さえも変化していくのだなと、感じた日。
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