待ち合わせ場所として利用する機会が多い、とある駅がある。
駅のすぐそばに大きな学習塾でもあるのだろう。
時間によっては、ひと仕事、いや、ひと勉強を終えた子どもたちの集団が、各々の帰路に就く前のお喋りを楽しんでいる光景を目にすることがある。
その日の私は、もう間もなく到着すると連絡があった知人を出迎えるべく、改札が見える場所で待機していた。
辺りには駅の改札付近で見られる、よくある光景が広がっており、塾帰りの子どもたちもいた。
私の目の前で輪になり、お喋りをしていた子どもの中の一人が、西洋のお顔立ちの少女に言った。
どうしてお弁当がいつもお菓子なの?と。
お菓子をご飯の代わりに食べたら体に悪いし、頭も良くならないから、おにぎりが一番だよと。
そのように言われた少女は、どうしておにぎりが一番なの?サンドウィッチもバナナもチップスも食事だよと返した。
様々な背景が透けて見えているやり取りに、私は胸がギュッとなった。
実は、私もこのようなことを言われた経験がある。
イギリスで暮らしていた頃、何度かお弁当を持参しなくてはいけない場面があった。
郷に入っては郷に従えで、誰かが私の為に用意してくれたお弁当に対して不満を抱くことは無かったけれど、
自分のお弁当を自分で作り持参するのであれば、私が慣れ親しんでいる日本式のお弁当を持参していた。
しかし、その中身を見た周りは、どうしてそういうお弁当なのか、私たちのようなお弁当は嫌いなのか、私たちと一緒は嫌なのか。
その他にも、ここで話すことを躊躇うような、偏見からくる非難の言葉を浴びることもあった。
このような状況は、田舎へ行けば行くほど強まるように感じた。
彼らは彼らで私が育ってきた環境を知らないだけであり、
自分たちにとっての常識が世界の全てであるように見えているだけであり、
そこから、お弁当はこういうものだと無意識に決めつけてしまっているだけなのだけれども、言われた側は、複雑な心境である。
目の前で行われているやり取りが、私が過去に抱いた気持ちを撫で上げたような気がした。
すると、別の子が「どっちも美味しいお弁当だね、良かったね」と言った。
思わず、背後から「そうそうそうそう、結局、そういう事なんだよね」と相槌を打ちたくなってしまった。
世の中を見渡すと、この子どもたちの小さな輪の中で行われているやり取りと大差ないことが、至る所で行われている。
自分が知っているスタイルが全てではなく、他のスタイルだってある。
同じでなくてはいけないのではなく、違っていることはおかしいことではないという見方や選択肢を持っていれば、
もっと軽やかな気持ちで日々を楽しむことができるように思う。
ただ、それに気付くには、身を置く時代や環境、触れ合う人々や出会うモノゴトなどから受ける影響も大きいのだ。
人生には無駄なものなど一つもない、という使い古された言葉があるけれど、「確かに……。」と改めて思うのであった。
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