駅へ向かう道すがら、雰囲気の良い店構えの印鑑屋があった。
窓ガラス越しに真っ先に目についたのは、店内の一角を占領していた大きな大きな観音像だ。
その奥に見えたカウンターには、職人と呼ぶに相応しい空気をまとった男性が、印鑑を制作中だったのか俯いている姿が見えた。
あっという間に通り過ぎてしまったため、それ以上のことは何も分からなかったけれど、随分と前に印鑑屋で教えていただいた話を思い出した。
今回は、そのようなお話を少し。
私たちの人生の中で、実印を使うようなシーンはそう多くはないため、個人が日常使いしている印鑑と言えば、認印と呼ばれる位置づけのものである。
認印と一口に言っても、100円ショップのようなところで手軽に購入できるようなものから立派なものまで多種多様だけれど、
とてもリーズナブルに手にすることができるようなものを、私たちは三文判と呼んでいる。
この印鑑の名に使われている「三文」とは、江戸時代よりも前に使われていたお金のことで、一文と呼ばれる硬貨が3枚ということなのだそう。
お金の価値は時代によって異なるけれど、三文という金額は一般的には少額と言える金額だったこともあり、
「三文」という言葉は手頃な価格や、価格や価値が低いものを表す言葉として使われるようになったのだとか。
そして、この時代に登場したお手頃価格の判子ということで、リーズナブルに手にすることができる印鑑を三文判と呼ぶようになったという。
これは後に知ったことなのだけれども、「三文役者」「三文芝居」などという言葉があるけれど、
ここで使われている三文も、まだまだ発展途上で、力が十分ではないという点を価値に置き換えて使われはじめたようである。
語源は理解できるものなのだけれど私が個人的に不思議だと感じるのは、「三」という数字。
三という数字は不思議な数字で、神聖なものを表すときや、大切な何かを挙げるときなどに使われることもあれば、
このように価値が低いという意味に絡ませて使われることもあるのだけれど、
何か一筋縄ではいかぬ、不思議な数字なのではないかと思うことがある。
話が横道に逸れてしまいそうなので話をもどすと、このような話を、随分と前に印鑑屋で聞いたのだけれど、
特に興味深かったのは、印鑑の付属品のような扱いをされている朱肉の話。
聞くところによるとこの朱肉、古の時代では人々のステータスシンボルのようなものだったのだそうだ。
今でこそ、誰でも好き勝手に使ったり所持したりできる朱肉なのだけれど、
身分が高い一部の人々しか持つこと、使うことが許されておらず、その他大勢の方々は、黒い墨で押印していたのだそう。
ペーパーレス化はこれから更に進んでいくのだろうし、
いつ頃まで、この印鑑というものが世の中で様々な立場を証明するアイテムとして存在できるのかは分からないけれど、
そう遠くはない未来、印鑑というものが身分を証明していた時代のことや、印鑑を貴重品として扱っていたことを、摩訶不思議だと感じる時代になるのだろうと思う。
今の私たちが、朱肉を好き勝手使うことができなかった時代があると聞いて、
その時代を本当の意味で想像することを難しく感じるのと同じように。
私の印鑑を作ってくださった職人さんは、このような話をしてくださったあと、「印鑑も印鑑屋もそのうち無くなるんだろうけどね、それまではこうしてね」と印鑑を彫る仕草をしてみせた。
自分が多くの時間を割いてきたモノゴトが無くなる、そう遠くはない未来に。
そう思いながら関わり続ける感覚とは、どういうものだろうか。
当時の私は、そのようなことを思ったような……。
すっかり忘れていた遠い記憶を手繰り寄せながら駅へと向かった日。
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