春をお迎えする桃の節句用に準備した桃の花。
外で目にした時には小ぶりに感じることが多いけれど、室内で目にすると外でのそれとは異なり、花のひとつひとつが大きく感じられるように思う。
そのような異なりを感じるたびに、花が持っている生命力の強さにハッとする。
生けたときは小さく硬い蕾だらけで、本当に全部咲いてくれるのだろうかという不安を勝手に感じていたのだけれど、
2月が終わりに近づく頃になると、蕾は紅く色づきながら膨らんでいき、3月に入るや否や次から次に艶やかさと可愛らしさを混ぜ合わせたような、素敵な花を咲かせてくれている。
そして、その赤みを帯びた濃い桃色の花が花開する度に、春が家の中にぽわんっと弾け広がるような気がするこの頃だ。
その日もリビングで小さい春を愛でながら、温かい甘酒で体を目覚めさせていたのだけれど、昨年末に会ったきりになっていた友人から愛犬の動画が送られてきた。
ここ数年会えていないことを残念がっていた私のことを思い出して送ってくれた動画には、寝言を言う姿が収められていた。
時折、ハッキリとした声で鳴くものだから本当は起きているのではないだろうかと思ってしまったけれど、
足をリズミカルに動かしているところを見ると、どこかを駆け回ってはしゃいでいる夢でも見ていたのかもしれない。
ハッキリとした声で鳴く寝言と言えば、赤ちゃんの夜泣きの中にも寝言があると聞く。
生まれて間もないこともあり、寝言を発する方法のひとつが「泣く」であるため、そのような表現方法になることがあるという。
もちろん、寝言ではなく何かしらを知らせたくて泣いていることもあるため、数十秒ほど観察してからの判断にはなるけれど、寝言は本人が一番使い慣れた言葉や方法で発するものなのだろうと思う。
私は、外国暮らしをはじめて数か月ほど経った頃だっただろうか。
寝言や夢の中での会話が英語になった時期があった。
声にする、しないに関わらず、日本語を極力使わないようにして暮らしていたため、私の日常を占めていたもので寝言を発するようになったのだろう。
ただ私の場合は、もっと英語をマスターしなくてはという妙なプレッシャーが原因だったのか、
マスターできたわけではないのだけれど、生活に慣れたこともあり、のんびりでいいかしらと思い出した辺りから日本語に戻ってしまったような気もしている。
無意識に発する寝言には、様々なことが潜んでいるのだなと感じた日。
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