待ち合わせまでの時間潰しに雑貨店をのぞいた。
窓際に設置してあったアンティーク調の白い円卓の上には可愛らしい雑貨が並べられていた。
その雑貨を見守るかのような段差がある位置には小瓶にガラスビーズと一緒に入れられた毬藻が並べられていた。
ワタクシ、密かに毬藻好きである。
毬藻との初めての出会いは小学生の頃。
当時大学生くらいだった知り合いのお兄さんが、北海道へ旅行したとか何かだったと記憶しているのだけれど、そのお土産としていただいたものだ。
ガラス瓶を窓へ向けると、瓶の中に差し込む光が毬藻に当たってキラキラと輝き、その姿の虜になった。
そのときに、毬藻は生きているということや、水を換えながら育てると大きくなるということを教えてもらい、マリモちゃんというベタすぎる何の捻りもない名前を付け、せっせとお世話していたのだ。
注いだ愛情が毬藻に届いたのか、親指の第一関節ほどの大きさだったマリモちゃんはピンポン玉ほどの大きさにまで成長した。
その頃には、小さくて丸いままの可愛いマリモちゃんではなくなっていたけれど、確か、命尽きて茶色くなるまで見届けた……はずである。
あの、ガラス瓶の中でキラキラと輝く姿が子どもの私には、それはそれはキレイに見えたのだろう。
大人になっても、毬藻を見つけるとつい手に取って眺めてしまうのだ。
しかし、当時と異なるのは、もうその小瓶の中でふわふわと泳ぐ毬藻を買って帰ろうとは思わなくなってしまったこと。
これは、大人になってしまったからという理由ではなく、
ある時何気なく目にしたテレビで、毬藻を作っている映像を目にしたからである。
その映像は、女性がマンションの一室のような場所で、北海道以外の場所で採れた藻をせっせと手で丸めていたのだ。
確かに、北海道の阿寒湖に生息している毬藻は特別天然記念物に指定されており、採ることも、販売することも禁止されいるため、
お土産として販売されているものは、その雰囲気を味わうための作りものである。
その女性の手で丸められた毬藻に罪はないのだけれど、その映像に釘付けになっている私に母が言った。
「あなた子どもの頃、毬藻育てていたけれど、これだね」と。
初恋のようなキラキラとした出会いの記憶と重ねた日々が崩れ去った後のような、百年の恋が冷めたばかりのような。
そんな状態にあった私に対する母の何気ない発言は、緩く強く突き刺さるようであった。
私の母は、このようなタイミングを逃さず刺してくるところが玉に瑕である。
今では、そのようなことも含めて思い出しつつ手に取る毬藻なのだけれど、初恋は美化されてしまうものなのか、やはり毬藻のことは好きなのである。
変わったことと言えば、「好き」の理由はなくなってしまったけれど、それでも好きだと言えることだろうか。
好きのカタチも変化も在り方も、イロイロである。
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