中学生だろうか。
まだ幼さが残るお顔立ちの少年たちが、歴史上の人物について独自の見解を言い合い盛り上がっていた。
柔軟な想像力から飛び出す自由なストーリーに引き込まれそうになったところで、彼らは電車を降りていった。
歴史上の人物たちと言えば、出世魚のように名前が次々に変わっていく。
私はこのシステムが少々苦手で、幼名や通称、諱(いみな)などまで把握できておらず、
この名は誰の名だったかしらと、その都度調べるか、話の前後から推測しつつ最後に帳尻を合わせるなどして乗り切ってきた。
しかし、電車を降りて行った少年たちは皆、この辺りを把握していることが垣間見えるような会話を交わしており、感心してしまった。
それにしても、名前というものの扱いも時代によって様々である。
今でこそ、名前というものは一個人を表すものという位置づけだけれども、先人たちにとっての名前というものは、所属グループや地位を表す記号のような役割を担うことが多かったように思う。
例えば、誕生したときに付けられる幼名は、まだ未熟者であるということを自他ともに分からせるような名で、先祖代々同じ幼名を使うことも珍しくない。
家柄や地位が低い者の中には、成人してからも幼名を使い続けたケースもあったようなのだけれど、
一般的には、幼名は成人する日までの期間限定の名前として使われている。
そして次は、成人する日や年齢は時代によって異なっているけれど、16歳頃までには成人としての仮名(けみょう)と諱(いみな)をいただくという。
仮名(けみょう)は普段使いする名前で、諱(いみな)は公の場や死後に呼ばれる名なのだそう。
この諱(いみな)の方は、忌み名とも言われ普段使うことはなかったのだそう。
この時点で、生まれてから3つの名前を使うことになるのだけれど、
地位が高い方々は人生の節目に改名をして更なる高みを目指したり、その都度、自分の地位に見合った名前に改名することもあったようなので、
余程のことが無い限り、名前は一生使い続けるものというよりは、変えていくもの変わっていくものという認識が強かったように思う。
代々受け継がれてきた同じ名を受け継ぐ感覚や、自分の名前に愛着が湧く前に新しい名前へと変わる感覚はどのようなものなのだろうかと思ったりもするのだけれど、
当時の人たちからすれば、小学生が中学生になる。中学生が高校生なる。というような、ステップアップを感じ、それを周りにも示すことができる喜ばしいものだったのかもしれない。
今も昔も人の暮らしの中にある諸々の中には、時代によって扱い方が異なるものも多く存在している。
そのようなことにちらりと触れると、自分が「こうでなくてはいけない」と思い込んでいることの中には、もっと肩の力を抜いて接しても良いようなことも多いのではないかと思ったりもする。
それにしても。
幾つかのストーリーの中に登場する、異なる人物を追っていたはずなのに、同一人物だったと分かった時の混乱と言ったらない。
やはり私は、出世魚のように名前が次々に変わっていくこのシステムが苦手である。
そのようなことを思った日。
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