炊飯器から軽快なメロディーが流れ、ご飯の炊き上がりを知る。
キッチンへ行き、炊飯器をぱかっと開けたときの幸せな香りといったらない。
今年に入ってすぐのことだっただろうか。
買い替えたばかりの炊飯器の電源が炊飯の途中で切れる、という非常事態に度々見舞われた。
「今宵のごはんの出来栄えは如何に!?」とドキドキする機会が増えたため、交換していただくことにした。
それから数か月が経った今、新しい炊飯器は、私に完璧なる安心感と美味しさを日々提供してくれている。
これだけ美味しそうな炊き上がりを見せられてしまうと、お茶碗によそう際にも自然と気持ちが入るように思う。
ご飯と言えば「よそう」という言葉を使うけれど、昨今、「盛る」という言葉を選ぶ方が増えているのだとか。
私は「ご飯大盛り」「食材を盛り付ける」といった表現を見聞きし慣れた結果なのだろうかと想像したのだけれど、
このご飯に対して使われる「よそう」「盛り付ける」という表現にも先人たちの食べ物に対する気持ちや時代背景が見え隠れしていたのだ。
今回は、このご飯に対して使われている「よそう」「盛り付ける」という言葉に触れてみたいと思っております。
ご興味ありましたら、少しお付き合い下さいませ。
言葉の表面的な意味だけを見れば「盛る」という言葉も通じますし、実際に「ご飯を盛る、盛り付ける」と言っていた時代もあったといいます。
その時代がどのような時代だったのかと言いますと、戦続きの戦乱の世で、食事は楽しむものというよりは戦うためのエネルギーを補給するもの、というような認識が強い時代だったようです。
もともと「盛る」という言葉には、器にうず高く積み上げるようにして入れるという意味がありますので、
この時代のご飯は、お茶碗を満たすようにして入れた後、その上に更にたっぷりと積み上げるように盛っていたといいます。
一方の「よそう」という言葉は漢字では「装う」と書き、飾りつける、身だしなみを整える、風情を添えるなどの意味が含まれていますので、
お茶碗の中に「ご飯をよそう」ということは、丁寧に飾るようにして入れる、ご飯を整えるようにして入れるということであり、そこにはお米に対する気持ちや風情なども添えられています。
同じお茶碗一杯のご飯でも、よそい方によって、より美味しそうに見えたり、美味しさが半減して見えるのが、ご飯の不思議なところであり、奥深いところでもあります。
何気に、その日の気分が表れてしまっているということもありますので、たまには、自分がよそったご飯をセルフチェックしてみるのはいかがでしょうか。
盛らずによそったご飯で、美味しい時間を是非。
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